1977年10月、無限から刊行された井田真木子の第2詩集。
川は南から北へ、あなたの内部を流れていく、時には正体不明の死骸を浮き上がらせながら。この形而上の流域に棲む”街”に、ひとはいるのだろうか。彼はA・Dだった。一九五〇年代に産まれている。それは湿地の気をおびた惨劇、あるいはEventonariverといってよかった。川岸の女たちは(まだまだA・Dを産むことができる)と信じている。しかし若年にして、A・Dは奪われる宿命を完璧に生きて痛んだのだ。いまでこそ陽気な一本の木に化けたりもするが、彼が掌を開いたって、飛び立つのはブヨだけだ。あなたは、そのA・Dから洗いざらい盗むことによって豊かになったのであり、生気にあふれた神聖なペキン・ダックに見える。闇を孕む”街”の耳の穴に、あなたが指をさしこんで痙攣するとき、A・Dは、<毒とスープの赤い通り〉を〈泳ぐ男〉となって舌を鳴らすだろう(あの娘のペニスが俺の邪魔をする)と。
会田綱雄
若い精神の特権 田村隆一この詩集のヒロイン(あるいはヒーロー)は、むろん、「街」そのものである。この街には川もあれば山もあり、そして海辺もある。主題歌は「毒とスープの赤い通り」。街には死角があって、そこから目に見えない触手がのびてきて、<走る男〉や〈泳ぐ男〉を瞬時にとらえて、地球の暗部を思わせる子宮に誘いこむ。街にも子宮があることを知ったのは、まさにこの詩集のおかげである。<走る男〉と〈泳ぐ男〉の顔は、逆光線にさえぎられてぼくらには見えない。そして、心の空白が、かくもリズミックに、かくもエロチックに表現されたのは、詩集そのものに息づいている若い精神の特権かもしれない。新鮮で活力にあふれている肉感的な「街」に、ぼくは拍手をおくる。<歩いている男〉はひとりもいないからだ。
「夢的」であるとはどのようなことだろうと考え、あらためて「夢」という言葉を眺めてみると、それは「夢想」「夢みがちな」「夢に逃げこむ」等といったファンタジックで非現実的な語感をもっています。しかし実のところ実際に私達がみる「夢」はファンタジーとは程遠いものでむしろ多くの人間のきれぎれの訴えや、途切れがちな実生活の記憶からなっていると私は思います。
そして、その実生活の記憶とは、満員電車の吊り皮と雑踏の絡まりあう風景、「てのひらにのるこのテープでなんと120分の録音が可能です。」
といった吊り広告の文句、隣りの席の乗客の誰にいうともない不満、といったこの上なく日常的なものではないでしょうか。
又、「夢」は幼児期をしばしばみごとに再現してくれますが、同時に現実の精緻な描き手でもあります。
私はこの詩集で現実がより現実へむかう姿としての「夢」の一性格に似せた一夜にして半生の作品をつくれないだろうかと試みてみました。
(「あとがき/井田真木子」より)
目次
- 追突
- 街には人がいたか
- 落下の記憶
- EventonariverⅠ
- その道は切れている
- EventonariverⅡ
- Eventonamountain
- 日常の倍数は?
- 朝・敵意
- 窓の外は?
- EventonariverⅢ
- 軸木
- 症状
- 誤謬
- EventonariverⅣ
- 仮死
- 饒舌な森
- 凍傷の森
- 変容
- 崩れゆく午後
- 午前の蘇生
- 再び街へ
あとがき