地の独奏 千行詩 友川かずき詩集

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 1985年6月、矢立出版から刊行された友川かずき(1950~)の詩集。装本は三嶋典東。写真は高梨豊。付録栞は福島泰樹諏訪優、ヨシダヨシエ、大島渚立松和平による推薦文。

 

 この「地の独奏」は、確かに私がハラを痛めて生んだ子だが、私はこの子に何ひとつ親らしいことをしてやることが出来なかった。これを生んでからの二年間というもの、その原稿は、いつも私の三種類の何れかの鞄の中に、小さな呻き、とともにあった。
 土方へ行く時は、軍手やヘルメットの入った鞄。
 歌いに行く時は、弦やカポタストや歌詞のノートの入った鞄。
 どっかへ呑みに出掛ける時は、本や雑誌の入った鞄。
 茶封筒に入れられたそれを、コピーして何人かの詩人や友人に送りはしたものの、鞄の中のそれは、いつまでも開けられることがなかった。
 思えば、「地の独奏」は、それまで私がやってきた、短い詩を書き人前でそれを歌う、という方法ぐらいではとても、晴れそうもない。また、細々と書き連ねて発表するには、あまりにも重くやるせなく掬いあげることの出来ない部分で、三十五年もの間、いつも私の心の一番奥底に頑として澱み、たゆたっていたものだ。
 新しい美味なる酒を呑まんがためにも、私はそれに格闘を挑まざるを得なかった。初め、故郷秋田、肉親、東京での、私の感知するところのすべてを、詩で葬ってやろうと思った。あちら側へやろうと思った。
 あちら側へやる、ということはとりもなおさず、こちら側の態度を鋭鋒よく明示することである。が、残念かな日々底で私を主導してきた憎々しげなそれらを、殺るのは今だ、とたぐり寄せて手中にした途端、今までは思いも及ばなかった得も言われぬ愛おしい情をそれらに感じてしまい、一歩も動けなくなってしまうのだった。
 それでもどうにか書き終えることが出来たのは、胸奥に、ここを明らかにせずして、次はないな、という恐怖にも似たものが常にあったからだろう。
 書き上げた年の十月三十日、すぐ下の弟の覚(さとる)が、大阪と和歌山を結ぶ阪和線の鉄路に消えた。三十歳であった。詩を書き、酒に溺れ、飯場から飯場を転々とする彼には、友人も恋人もいなかった。また、ボードレール、ランボォ、安吾山頭火をこよなく愛した彼は、私の日々の憤癌のぶつけられ役でもあり、私の書いた詩の、いつも最初の読者でもあった。
 それ故に、良き理解者であり、ライバルであった。
 「地の独奏」の不憫さに加え、弟にも逝かれ、私は、私自身をそれまで支え、生かせしめていたものが、音もなくスゥーと私の躰を離れ、どこぞえと潰(つい)えて行く気がした。
 闇夜に湿地帯をさまようような気持で、土方へ出掛け、苦い酒を浴び、無為に月日を積み重ねた。そんな時、常に忌憚のない冷静な友情を何かと示してくれたのは、秋田、青森、東京の友人達であった。
 野垂れ死に覚悟の生涯とはいえ、私とて生身の人間だ。友人達にそうそういつまでも甘えヅラを晒しているわけにもいかなくなってきたのは当然だ。
 さらなる一念で、次の長篇「木の恩院」と「覚(さとる)」に取りかからんとした矢先、三嶋典東、福島泰樹、水城顯の三氏にみちびかれて「地の独奏」が世に旅立って行く。何とも私にとって至福の極である。
 今、こうして旅立って行こうときれいなおベベを着せてもらっているのが、あのいつも私の鞄の中にあったあの子かと思うと、私はもうただただそのうしろ姿を、万感の思いで見送るのみだ。

(「あとがき」より) 

 


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