悲劇のシステム 作家Mと甘粕大尉 中林庫子

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 1995年5月、紅書房から刊行された中林庫子(1917~2007)による真船豊の評伝。装幀は山本美智代。

 

 あのころは戯曲といえば、すぐおうむ返しに眞船豊の名がかえってきた。じじつ彼の名は戯曲の代名詞であり、当時は第一人者だった。だが人びとから葬り去られて、その名をいうひとさえないまま彼も歿し、あれからの五十年がすぎた。
 ながい年月だった。けれどもわたしはこのかん、片ときも彼から離れることはなかったのである。というより彼がわたしのなかに棲みついてしまったのかもしれないが、愛人だった姉は、彼女は八十五歳でなお健在だけれど、あたしにもそんな若い日があったんだわねえと、彼とのいっさいを過去のものとしてさばさばと割りきっているのに、妹のわたしがまだ彼を宿しているのだ。おかしな話である。でも男と女の関係は、過ぎてしまえばむしろさばさばしたものかもしれない。それにひきかえ、セックスもなにもない白紙の関係で結びついてしまった彼とわたしのばあい、かえってその糸はたちがたく、結び目も、容易にはほどけない。
 したがってこれを書くことが、わたしにできるただひとつの鎮魂のように思えるのだ。わたしがしなかったら、他のだれにも彼への鎮魂はできない。やはりわたしが人間眞船の苦悩を、あえて語らねばならないのだ。
 だがじじつこれを書くのはつらかった。なんども投げだした。でもそのたびにまた立ちあがっては図書館がよいに精をだした。彼の著作をよりつまびらかに知ることは、彼をより深く知ることであり、それはまたどうじに、いまわたしが書いているものに誤りはないかの、その信憑性の裏付けともなるからである。ともかくも、慎重に書いたつもりである。
 しかしひとつだけことわっておきたいのは、彼の小説『忍冬』についてである。それというのもこの本から多くを引用したからだが、彼はこれを数度にわたって書き直している。もちろん文中でも紹介したように新聞連載として書いたのがいちばん最初だけれど、これはおくとして、初版として本に上梓したものが、異つた内容で、ふたつ存在するのだ。つまり昭和二二年八月にだしたものが初版であり、だからいうまでもなく、当時はまだ姉妹そろって島根県にいたとき、彼が自分の手でそこまで送りとどけたのもこれだが、この初版本は幻の本になってどこにも見あたらず、もうひとつ別の初版本が、いまは初版本として残されているのだ。したがってわたしは引用をできるだけいま残されている『忍冬』からえらぶよう、こころがけはしたが、幻の『忍冬』からの引用も、二、三あるので。
 わたしは前著『マルーシャ』を書くにあたって数年間、国会図書館にかよいつめた。昭和五○年代のことだ。でその下調べも一段落したころ、つぎには真船を書こうと、そんなこころづもりもあったので、ロビーにおりて著者別の引出しから眞船の『冬』をひいた。さて閲覧したそれは、国会図書館では年をへて破損すれすれのものはみんなそうしているようだが、紺色の布でていねいにカバーされていた。だからよく見おぼえている白い表紙は隠されているけれど、見返しの梅原龍三郎の絵も色あせ、たいへんな年代ものだ。いやそんな感懐はともかく、かつて彼が刷りあがったばかりの『忍冬』を島根県まで送ってよこしたときの、それを読んでのショックは大きく、そしてそのひどいショックが、わたしに要所要所を的確に記憶させていたので、すぐその再確認にはいったのだった。するというまでもないことだが、頁のどこにそれらがあったかの記憶どおり、たがわず頁のそこにあった。わたしは念のためにと簡単にメモし、本をもどしたのだった。
 だがそれから数年がすぎ、昭和六三年だった。このかんに『マルーシャ』とその続編を本にし、さていよいよつぎの眞船を書くべく、腰をあげたのだったが、さっそく駆けつけていった国会図書館での『忍冬』は、かつて閲覧したあの『忍冬』ではなかった。紺色のカバーもなく、白い表紙のままなのも意外だったが、なによりも内容がちがうのだ。奥付けはとみると昭和二四年五月とあって、第二版となっている。初版から二年後にだしたものだ。そこですぐロビーにおりて初版はないかとたずねた。しかし、ないという。これはわたしの推察だが、二、三年まえ地下に大書庫をつくったから、そのおりの整理で二版のあるものは、古い破損の初版を廃棄したのかもしれない。初版と二版が内容を異にするなぞと思うはずもないのだから。でもいったいなぜ、内容が異るのか。
 全体のトーンが微妙にちがって、まえにもまして繕いが多くなっている。ことに綾子と邦子の姉妹を語るくだりにそれが目立つ。姉綾子の《病弱で痩せて背の高い女》という表現は、《楡の木のやうに細く、そして背が高かった。顔は細々と痩せてゐて、青白かつた》となっている。妹邦子の足をいうときのひどい差別語もやめ、こんどはただ足の不自由な邦子としている。だが外見だけではこのように、ひどい表現をおさえてなめらかなものにかえているけれど、姉妹の人間性そのものは、まえにもまして矮少化され、おとしめたものになっている。初版をだしたのちもなお、世間にむけてか姉妹にむけてかそれもわからないが、そのようにせざるをえないなにかがあったのだろうか。それにしても、妹邦子がソ軍急襲でほんとうに死んでしまってくれただろうかと疑心暗鬼する。そのきわどい個所が消えている。初版でみせた直情を、削除してしまっている。
 そこでわたしは駒場近代文学館へといそいでいたのだった。そこなら初版があるにちがいない、もういちどしっかりと初版をたしかめ、ちがいを確認しなければと。
 しかしふたたび愕然としなければならないわたしであった。たしかに初版はあった。奥付けも第一版とあって、昭和二二年八月一五日の日付けである。だが内容は国会図書館の二版とおなじく、書き直されたものであった。二版を刷るときその奥付けの一部を一版とし、日付けもかえたのだろうか。だが図書館のひとからこれについての答えをうることはできなかった。それなら出版元の「木曜書房」にあたるしかない。だが四十年という歳月がすぎているのだ。「木曜書房」なる名のものは、もうどこにもなかった。
 しかしわたしはやがて気をとり直し、ぼつぼつと眞船を語りはじめていたのだった。以来ずっと島根県に残って、そこで暮らしている姉のもとに、正真正銘の初版本があるのだから、なにもあわてることはないのだ。彼がかつて手ずから送ってくれたあの『忍冬』が、彼女の本棚にそのままあるのだから。
 ところがそれは昭和六三年七月一五日のことだった。前夜、にわかに北北東に進路をかえた超大型颱風が、島根県西部全域を襲ったのだった。ここは颱風の通り道で、数年にいちどはかならず大きな惨禍にあうのだが、それがしかもこのたびは、姉の住む浜田市を直撃したのであった。ひとり暮らしの彼女は近所のひとのおかげで身ひとつだけは、かろうじて逃れえた。だが家も家財道具もいっさいを、濁流の渦のなかに失ったのであった。したがって彼から送られてきたあの初版の『忍冬』も、濁流に消え、もう見るすべもなかったのである。
 このあと神田の古本屋街をうろついたりのこともしたが、無駄だった。また久保田万太郎が慶応大学に著作権を寄贈したとき、もしかしたら蔵書も寄贈したかもしれないと問いあわせてみたけれど、寄贈は著作権のみとのことであった。万太郎氏の蔵書なら、かならず初版の『忍冬』があるはずなのだが。
 思いあわせてみると彼が二版を書き直していたころ、ちょうどわたしが軽井沢に彼をたずねたことになるのだが、軽井沢でのあの夜の彼の、あの姿。彼のこころがどんなにちぢに揺れうごいていたかが、手にとるようにわかる。どれほどの苦渋だったか。
 だがいずれにしても『忍冬』は、彼にとっての苦渋の書だったのだ。のちの三三年にだした自伝『孤獨の徒歩』でもこの『忍冬』に多くの頁をさき、肚の底からとことんみんな吐きだして自分を語った作品だから、これだけ語れば作家冥利につきるといっているけれど。
 あとがきが長くなってしまったけれど、最後にいちばんだいじなことをいっておきたい。これを書くにあたって、子息、眞船淳美氏が、それをご快諾くだすったということである。親しくお目もじしてのことだったが、氏は語られるのだった。みんなよく理解できますと。ありがたい言葉である。いまここにあらためて深くお礼を申しあげたい。
(「あとがき」より)

 
目次

  • 序章
  • A編
  •  浮き巣
  •  ホテル・ニウハルビン
  •  魔
  • B編
  •  海鳴り
  •  裂
  •  赤いランプ
  • 終章

あとがき


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