寄友 加島祥造詩集

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 2000年2月、書肆山田から刊行された加島祥造の詩集。編集は加島祥造三好豊一郎の詩を引用。装幀は青山杳。

 

 この詩集は、ひとつの主題によって編まれている。その主題は、ふたりの男の心の交わりであり、収めた詩は、いずれもその線にそった作である。それらは、みな、作って発表するために書かれたのではない。ふたりの交わりのなかに生動した情念を詩で把えようとしている。
 三好豊一郎が亡くなって六年が過ぎた。いま、私は既作の詩に未発表の詩を加えて、これを編んだ。これは彼を追悼するものであるばかりでなく、これによってふたりの間に生動した心のリズムを、明らかならしめたかったためである。ここにある命のリズムは、個人的感情や追憶を越えて伝わるものではないかと思い、またそう願ってもいる。

 彼は一九二〇年に八王子に生れた。私はその三年後に東京の下町で生れた。私たちは戦後まもなくできた詩のグループ「荒地」の同人として知りあった。しかし友としての交わりの始まったのは、私が一九五三年に松本へ移ったあとのことだった。時おり彼は私を訪れてくれて、ふたりは村落をよく歩きまわった。

「きみとまた桃花の里を歩きたい」と手紙を書いたら、桃李の誤りじゃないか、と友人から返事があった。用語の当否は問う必要はあるまい。私が桃花と書いた長野県松本市郊外の岡田村に、ほんとうに桃や李があったかどうか、ただ桃の花らしい淡紅のみが私の記憶に鮮かである。(中略)
 彼は松本市内の間取りの大きな古びた足軽長屋に住んでいる。廊下で裏庭につき出した厠、天井のない広い部屋は薄暗く障子だけで雨戸はなく、梯子をとり外せば天袋ともみえる隠し二階をもつこの家は、合理化などとは縁遠い間の抜けた広さで、それがいかにもおもしろい。岡田村の散策のみならず、この家の十二畳の一室のひんやりと薄暗い空間が懐しい。心安らぐのを覚える。彼という人格につきまとって、私の興味の半ばはどうもそこにあるらしい、と言えば、彼、この莫逆の友は憮然とするか。(三好豊一郎『蜉蝣雑録』第一章、桃花村)

 彼は、君に会うことよりも村落の光景がみたいのだ、とからかい気味に本音を減らしている。このころの彼はすでに田園に住む陶淵明の心境に強くひかれていたのだった。しかし私はそんな心境とは遠いところにいたから、松本を去ることに何の未練もなかった。一九六七年、彼が四十七、わたしが四十四の年のことである。
 それから私は横浜に住んだが、六年後の一九七三年に、伊那谷駒ヶ根市外大徳原に山小屋を作った。夏になるとよく、年来の詩友三好豊一郎がやってきた。私は「客ニ接スルニ衣冠ヲ著ケズ」どころか半裸の姿で彼と碁を打ち、スケッチに出かけ、「柳陰ノ堤畔ヲ間行シ」「暑ノ至レバ流レニ臨ミ足ヲ濯イ」「雨後二八」野に立って「山ヲ看ル」喜びをともにした。もし私がこうしたひと刻をことさら意識して楽しんだとすれば、それはこの「風と影の時間に」「賞心十六事」(蘇東坡)がいつしか私の心にはいりこんだせいであろう。〉(加島祥造伊那谷老子淡交社)

 この詩集『寄友』のなかの詩は大徳原の小屋からはじまっている。たぶんここでふたりだけで過ごした日々は、ふたりに、それまでになかった何かを生じさせたのだろう。それは、ある種の深さといえそうだが、とにかくふたりともそれには無意識であった。彼の随筆集『蜉蝣雑録』は、山小屋へきた日の感想で終っている――

 大徳原へは息子がついてきた。いま二浪し、無為茫然と日を送っている若者に、私は与えるべき適切な言葉を知らない。生きることは自分の途を見出すことから始まる。彼がいかなる道を見出すか、私はそれを見守ってやらねばならない。ひと足先に彼は大徳原を去った。初秋の草原を見えかくれつつ遠ざかる。ひょろ長い身体の、まだ生活の実際を知らぬ二十歳の若者は、私には頼りない影のように見えた。
(二九四頁)

 これは一九七六年、彼の五十六の年のことであった。この前の年に、横浜で「有路会書画展」が始まっている。高木三甫、北村太郎、疋田寛吉、三好と私の五人が、それぞれの書や画作を展した会であった。のちに渡辺録郎が加わった。十年間、毎年開いた。ここでも彼は初めから、すでに円熟した書きぶりの作を示したが、私はここで一から始めたのであった。とにかく、このころからふたりの交わりに文人画への興味(というより熱中)という方向が加わり、終ることがなかった。彼は没する寸前に開かれた個展(池ノ端古心堂)で、文人画として比類のない完成度の諸作を示した。

 晩年にはまた、沼津の大中寺で真鍋呉夫、那珂太郎、下山光悦、三好と私とが寄って、連歌を巻いたことがあった。三年ほどつづいたが、その日々の彼の楽しげな様子も忘れがたい。

 しかし詩人の真価は、この青春の生理が衰えて、詩作に自覚と意志が必要となったときに、精神の青春性をいかに持続し、いかに発揮できるかにかかるのである。(『幻華山房漫筆』「詩における青春性」小沢書店)

 彼は中年以降、この意識を持ちつづけた人だった。詩文でも画作でもライフでも、「精神の青春性」はつねに彼のなかに息づいていた。青年期の病気のせいで、彼の生理はやや早く衰えたが、精神は少しも老いることがなかった。しかし私がこのことに気づいたのは、彼の没したあとなのだった。彼がいかにこまやかな、そして深くて温かい心の人であったかはずっと後で解ったことだ。彼はつねに、控えめな、慎重な、あざとさを嫌う態度を持していたから、人は彼の内なるものの本質に、ずっと後になって気づく。今になって私がこの詩集を編みたくなったのも、このせいなのであった。

(「あとがき/加島祥造」より)

 

目次

友について アーサー・ウェイリー
あの二人 三好阿佐子
媒介者とは

  • 消息――三好豊一郎
  • 小さな窓から
  • 刑風
  • 老逢佳景
  • 愁いの路は
  • 夏の日の想い――三好豊一郎
  • 寄友Ⅰ
  • 若いコオロギ
  • となりにいない友に
  • 寄友Ⅱ

  • 彼岸の入りの日に
  • このスケッチは
  • あの時の二人とは
  • 死に許されて

あとがき
書誌解題


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