2013年5月、アーツアンドクラフツから刊行された佐藤克司の回想録。
父は数え年十七歳で義勇軍に志願した。いや、祖父に志願させられたといった方がいい。自分の父親に「軍人になれ」と言われた時に、すわって話を聞いていた父は、くるんと後ろにひっくり返ったという。昭和十二年である。そして二度目に大陸に渡ったのは昭和十七年である。この『東満州逃避行』の冒頭の時点での父の年齢は、満年齢で二十四歳である。
子どもの頃、父から聞いたことで印象的な断片がある。父が満州で煙草を紙で巻いて作って吸った時のことである。その紙がトルストイの『復活』の文庫本であったそうである。読みながら裂いていって、とてもおもしろい小説だと思ったそうである。この話を聞いたのは、なにしろ以前のことで、その前後などは不明である。活字の古さや、戦前の文庫本の紙質の悪さが思い浮かぶ。満州の空気を連想する。それだけである。
帰国後は「赤旗」をかなり長い間、定期購読していた。私や妹の倫子は、「赤旗」を家に配達しに来る男の人と父が対座して長い間話をしていたのをよく覚えている。どうして共産党なのかと聞くと、ずいぶん俺も悪いことをしたからな、という一言だった。それ以上の説明はなかった。中国が大好きであった。韓国にはたいへん関心を持っていた。しかし、大嫌いであった。アメリカはさらに大嫌いであった。
極めて寡黙であると同時に、極めて政治的な人間であった。戦闘的な人であった。不安なことがあっても熟睡できる人であった。酒好きな人、酒の人であった。
舞鶴に上陸し、復員したのは満三十二歳の時であった。昭和二十八年九月八日である。戻ってきた時には、日本語がよく解らなくなっていたということであった。この本の粗末な原本を読んで、父の文章をお褒め頂いた、早稲田大学名誉教授の東郷克美先生にまず深く感謝申し上げたい。また、激励くださったアーツアンドクラフツの小島雄社長にも、深謝致したい。懇切丁寧な出版のお取りはからいは、言葉では言い表せない。
(「公刊に際して」より)
目次
- 東満州逃避行 敗戦私記
註
あとがき
公刊に際して 佐藤公一