2018年5月、花神社から刊行された古東古城(1920~1959)の遺稿句集。編集は娘の古東陽子。装幀は熊谷博人。
三年前に母が亡くなり、その葬儀の席上、弟から古い手帳を受け取りました。それは、父の残した十冊余の手帳でした。母が大切にもっていたものでした。朽ちかけたものも混じる古い小さい手帳。そこにびっしりと、およそ五千句ほどの俳句が、丹念に記されていました。
父が俳句を作っていたことは、家にあった『九年母』という句集に父の句が掲載されているのを見つけて、知ってはおりました。主人がその席でずっとその手帳に読み入っていましたが、いい句だから句集にしてはと言ってくれました。母もまた、生前いつかは必ず、父の句集を出したいと言っておりました。そこで意を決をし、ここに出版する次第です。作者について
著者、古東古城(本名、真元)は、大正九年、淡路島の洲本市にれました。曽祖父に幕末に活躍した古東領左衛門がいます。領左衛門は、淡路国津井の富豪にして国学者であり、勤王の志士たちを支援しました。天誅組の反乱に連座し、京都で斬首されました。今もなお、高台寺墓所に、勤王の志士たちとともに眠っています。
君がため思いしことも水の上の
泡と消えゆく淡路島人これが領左衛門の辞世の歌でした。
古城は、高卒後、大阪の会社に就職しました。やがて軍隊に招集され、満州に渡りました。しかし、激しい戦闘で片脚をうしない、昭和十七年、除隊となりました。
しばらく郷里で自宅療養をしておりましたが、昭和十九年に、神戸市にある兵庫傷痍軍人療養所に入り、そこで俳人、五十嵐播水と出会います。播水は神戸にて、結社「九年母」を主宰しておりました。以来、五十嵐播水を師と仰ぎ、死の年にいたるまで、「九年母」に属し、たくさんの句を生み出しました。
昭和二十年、肺結核を罹患し、大阪国立病院に入院。余命三年ほどとの診断を受けましたが、なんとかもちこたえ、これ以降、長年にわたる闘病生活を送ることとなりました。
大 阪国立病院に入院している時、看護婦、坂本クニエと出会います。二人は昭和二十四年に結婚し、二児(陽子、一輝)を授かりました。戦後の苦しい時代、生活は貧しく、長い療養生活は大変だったようです。妻クニエが働きながら、生計を担っていました。ためらいつつも出逢いがあり、カトリック洲本教会で受洗しました。
昭和三十四年六月十九日、早朝、療養中の病院で、妻クニエに看取られながら、永眠いたしました。
(「編集後記」より)
目次
- 昭和二十二年~二十三年
- 昭和二十四年~二十五年
- 昭和二十六年~昭和二十八年
- 昭和二十九年
- 昭和三十年
- 昭和三十一年
- 昭和三十二年
- 昭和三十三年~三十四年
編集後記