1961年6月、自然社から刊行された荒川法勝(1921~1998)の第1詩集。装幀・題字は野長瀬正夫。第12回H氏賞候補作品。
私は太平洋にのぞむ東北の小都市宮古に生れた。生後まもなく、母はなくなり、僧侶であった父は修業のため東京へいっていた。もの心ついたとき、私は釜石のノールウェイ人、エル・ラーセンの家に寄寓していた。叔母が氏の愛人だったからである。そこをふりだしに、私は数え年十八才まで親戚を転々とした。私の詩のなかに、ある種の暗さがあるとすれば、そうした私の個人的な生いたちに関係があるのではないかと思う。
最初の恩人エル・ラーセンはたどたどしい日本語で、よく鯨捕りの話をしてくれた。その中にある冒険は私の興味をひいた。私の詩作のめばえは、こうした叙事詩的な氏の話からしらずしらずに影響を受けていたと思う。小さい冒険心を大人になってからことばに託するとき詩になるのではないかと考えている。また、私が海に関する素材をもとめるのは、幼年期の屈折した心象への愛着にほかならない。
クロード・ロワの言葉をまつまでもなく、私も何人かの先人の詩人を抱いてきた。
少年期、私の国語の教師片岡教諭は花巻生れであり、熱烈な宮沢賢治の崇拝者であった。私は賢治の話を聞き、その詩を読むようになった。私は伯父の二階裏部屋で、賢治の詩を模倣し作ってみた。だが、それは型だけの幼稚な詩にすぎなかった
十八才。私は東北から東京へいった。うまく言葉が使えず、しばらく、私はおしのような日をおくった。私は口を開くのがおっくうであり、しだいに無口になった。この頃、詩をかくものが一度は通るとかいわれているリルケの詩に魅せられた。私はこの詩人から敬虔な詩のあり方を知った。だが、そうした私の創作意欲も中断されなければならなかった。アメリカとの戦争は苛烈をきわめ、私も戦場にでかけなければならなかった。
戦争は三沢の特攻基地で終った。
一九四六年上京したが、しばらく、虚脱感にとりつかれていた。無為な日が続いた。敗戦によってさまざまの現実の動きが私の生活を歪めた。生活は窮乏し、学生生活も無意味に思われた。そんなある日、私は古本屋で、エリオットの詩をみつけた。急に世界が開けた思いだった。私はこの詩から批評のあり方を学んだ。再び詩作するようになった。エリオットの愛読は任地の山形まで続いた。
雪国で、何よりの収獲はシュペルヴィェルの詩にふれたことであった。この詩人からは新鮮な技巧。心理のかげり。遠近法など多くのものを自分の内部に移すことができた。自分の嗜好や素質にこの詩人があっていたように思える。このあたりから、私は自分なりの方法を定着したようである。
任地は千葉の佐原に移った。私はここで、香取哲三郎、星野徹、五喜田清の諸君と同人誌「紋章」をだした。作中「河」一連の作品はこの時期のものである。私はこの利根の風物では冬の河が好きだった。その風物は不思議なほど、ある孤独性を保っていると考えられたからである。私は自分の心象をこの河に仮託した。
一九五九年。九十九里浜に近い成東に移った。少年期、私の魂をはぐくんだ海が、もう一度、真近にあることは私の生をゆすぶらずにはおかなかった。私は同人誌からさった。別に孤高や潔癖をてらうわけではない。私は日日の記録にかえて、詩をかき、自分をもう一度、ここで峻厳にみつめたかったのである。
作品は「詩学」研究会員時代、「紋章」「囲繞地」「地球」「白聖紀」同人誌時代、その他、一九五〇年より一九六一年にいたるものを収録した。どれも、今ふりかえってみると自分の表現法確立のための推積にすぎない気持がしないでもない。
(「後記」より)
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序文 山之口貘