新遊侠伝 火野葦平

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 1950年11月、ジープ社から刊行された火野葦平(1907~1960)の長編小説。

 

 このとぼけたやくざの物語『新遊侠傳』を、父の靈のまえにささげたい。この作品のなかには多かれ少かれ、よかれ悪しかれ、父の面影がいろいろな形であらわれているし、父る私のかくもののなかで、もつともよろこんで讀んでくれたものであった。
 九月九日、父が亡くなった。七十歲であった。親父は福岡縣若松港を中心とする北九州一帶で、玉井組の親分としての名を馳せた。筑豊炭田をひかえた洞海湾は、石炭積出港として日本一である。私の父は沖仲仕の親分として、多くの部下に慕われ、父のために命を惜しまぬ者も少くなかった。時代が變り、現在はおとなしくなつたが、父の壮年時代は、北九州地方では、やくざ仁義の達引がくりかえされ、喧嘩出入り、斬つた張つたが日常茶飯事であった。しかし、父は一種の叛逆兒で、いたずらな仁義立てを避け、ただ仕事の方に力をうちこんだ。そして、強きを助け弱きをくじく者の多いなかで、つねに弱きを助けて、強きにあたつたので、一生、損をした。そのために、身体にいくつかの傷痕をのこしていたが、それは父の「正しい者は最後には勝つ」という唯一の生活信條の証明であり、歴史であるといってよい。
 私はこういう父を持つて、荒くれたうえに煤けた若松に生れたが、喧嘩はきらいで、氣の弱い、母の言葉にしたがえば、「石炭のなかから螢石が出たような」奇妙な育ちかたをした。詩を求め、うつくしいものにあこがれ、ごんぞう(沖仲仕)の若親分、玉井組の御曹子たる身が、文學の道へ精魂をかたむけるにいたつたのである。私は作家の宿命を大仰には考えないが、育つた還境とはまったく逆の方向に、バーバリズムとヴアンダリズムとが、なによりきらいになったことは、やくざの垢によごれなかった父の正義感と、話し好き、座談の妙手であった父のロマンチシズムを、やはり私がうけついだものであろうと、このごろ考えている。暴力とボスとやくざとが否定されねばならぬことはいうまでもないとしても、私は父を愛し、父を追慕する心で、故郷である若松港のとぼけた遊侠たち、或る庶民の姿というものを、一摯に抹殺し去ることができない。私はいたずらに義理人情におぼれることをなに、より警戒しているけれども、私の育つた世界から、人間にとつて大切ななにかを附與されていることも、疑わないのである。私がこれまで書いてきた、そして、ここに集められた、いくつかの物語は、そういう私の庶民への愛の端的なあらわれであつて、これを封建的なやくざ道の是認のようにとられることは、うれしくない。新という字に、私のふくみがあるのである。とぼけた明るさ、滑稽な失敗、底知れぬお人よしを發揮する三人の主人公の面白さを、やはり人間の或るかなしさのにじみ出たるのとして、うけとって讀んでもらえばありがたいと思う。
 この月の十三日に、追放解除のよろこびに接した。そのとき、まつさきに父の顔が浮かび、もう一カ月生きていてくれたらと、不覚の涙が出た。さらに、この物語は、藤田進主演大映で映画になるが、活動寫眞好きの父に見せたかったと思った。いつてもかえらぬことである。せめて、この作品集を父にささげる所以である。
(「あとがき」より) 

 
目次

  • 第一話 晝狐
  • 第二話 枯木の花
  • 第三話 神樣乞食
  • 第四話 玉手箱
  • 第五話 松竹梅
  • 第六話 羅生門
  • 第七話 馬と鴉
  • 第八話 野球と蝙蝠
  • 第九話 犬部落
  • 第十話 金看板


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