1996年11月、小沢書店から刊行された高橋昌男(1935~2019)のエッセイ集。三田文学連載。
明治の末から大正にかけてのいわゆる自然主義小説が、粗削りながらいかに活力にみちたものであるか、そのことを再発見した気になったのは今から十年ほど前、私が五十かそこいらの時である。自然主義小説に限らない、それと対立する恰好の、同時代の別傾向の作品も私を魅了した。日露戦争後の変わりゆく世相が、一種の文芸復興期を招来したといえそうだ。
しかし幾つかの”名作”を読み直してみて気が付いたのは、かれら文士の関心が時代の動きには概して冷淡で、もっぱら私を通して得体の知れない人間の探究に向けられていることである。私を描くのではなく、人間一般を描くという高い志に支えられていたことである。ここからしばしば誤解を呼んできた実生活と小説との隔たりが生じるので、私はかれらの努力の跡を、誇張された表現の目立つ、不細工な出来栄えの作品そのものの中に探ってみた。この作業は愉しかった。そこには整理整頓される以前の、小説の理想的な猥雑さが到るところ見出せた。
本書に収められた文章は、一篇を除いて、三田文学編集長だった坂上弘氏の、「なにか文学随想風のものを連載で」という親切な求めに応じて書かれたものである。従ってこれは一小説家の読書散歩の報告であり、とうてい文芸評論と呼べるような代物ではない。私はただ、先人たちの苦心の跡を偲ぶ一方で、とうに評価の定まった小説でも、こうも読めるのではないか、こう読んだほうが面白いのではないかとお節介をやいて、自分なりに古典のリニューアルを図ったにすぎない。
『独楽の回転』という書名は、雑誌連載にあたって、コマを回すように好きな作家の傑作を次から次へ取り上げようという心づもりで名付けたのだが、あと少しというところでコマは力尽きて倒れてしまった。しかしまあ、この辺りが限度だろう。
(「あとがき」より)
目次
《田山花袋》
《森鴎外》
- 負けない鷗外
- 飼い馴らす魔物
- 岡田という美男子
- 雁の死
《国木田独歩》
- 亀屋の主人
- 独歩の宇宙信仰
- 怖るべき母たち
《夏目漱石》
- 三千代の金の無心
- 譲る恋と奪う愛
- 裁かれない〈先生〉
《長塚節》
- 『土』の擬人化された自然
《近松秋江》
- 仮装した近松秋江
- 秋江と白鳥とある女
- 蝕まれた友情の成果
《岩野泡鳴》
- 恋愛も事業の泡鳴
あとがき