1979年11月、榛の木社から刊行された藤原義信の詩集。装幀は佐野由生。著者は菅原克己主宰サークルPの会員。
藤原さんの詩は平明である。むずかしい言葉や意味は一つもない。これほどむずかしくない詩集は珍しいと言ってもいいくらいで、彼は笑いながら、どこからでも気楽に入って下さい、とでも言っているようだ。だが、むずかしくないということは、決して安易な詩だということではない。言葉によりかかったてらい、ポーズ、あるいはあいまいさがなく、率直に、透明に中身に入っていけることを意味する。
言葉が透明であるということは、ほんとうはむずかしいことなのだ。しかし藤原さんは、それが自分にとってもっとも自然だと思っているようである。だれはばかることのない彼の民衆性、その生活の実体において。
そこでは日常の世界が浮かびあがる。ややもすれば日常的という軽蔑的な言葉で扱われるふだんの生活過程が。だがそれは軽く考えられるものではない。日常とは、はじめも終りもなく拡がる現実の海なのだ。ぼくらの詩などというものは、その大海に落す小さな錘でしかないだろう。しかしその鍵は、日常の深みにおいて、現象にかくされたもう一つの側面をさぐることができるものなのだ。
藤原さんの詩はそこに成り立つ。誰でもやすやすと入り得る平明さは、<奇襲のない不意打ち>をもって、しばしばぼくらをひやりとさせる。いつでも明るく日常現象をとり出してきては、その奥にある生とか死の意味をそっと閃めかす。それは現代の危機感にもつながるものだが、彼の場合は決して深刻にならず、その持ち前の善良さ柔和さもくずすことなしに、ただ驚きを持ってぼくらに語りかけてくるようだ。
詩を書いている
生れて五十六年目
たった一つ ぼくのものを作っている
○
ふいに淋しくなるのだった
カタログをログと呼んだ
ログよ さあ出番だと
相手は無雑作にめくるのだった
ぼくがめくられた気がした
青春があり、愛があり、戦争があった。そして五十六年の年月があった。人柄の美しさ、この汗にまみれた年配のセールスマンの顔……。彼は何ごとも見通す眼をもって、静かに現実を生きてきたようだ。人びとに対する手厚い労りや心くばりは、そのままこの人の詩の透明さに通ずるものと思われる。さらに辛抱づよい前進を待つ。
(一九七九年、七月十日朝)
(「詩集に添えて/菅原克己」より)
目次
Ⅰ
- 小豆
- ネクタ
- 蟻
- 席とり
- 天ぷら
- 明方
- おばあちゃんの座ぶとん
- おばあちゃんとぼくと
- おまえといっしょに
- 出棺
- 今日は何日?
- 勘太郎の死
- 青春よ
- 歯をみがく
Ⅱ
- 元町舘
- 案内
- 食堂
- 議論の仲間
- 朝鮮の学生
- 青春の茶の間
- 幟
- 出征の朝
- 元町舘
Ⅲ
- セールスマン・ノートから
- 顔
- こわれた椅子
- おみやげ
- 大理石のテーブル
- バス
- ある女
- キャンセル
- 今 何時だと思う?
- 鞄
- カタログ
Ⅳ
- 冬の朝
- 春
- 風
- たねまき
- トウモロコシ
- 風鈴
- アグレュアス
- こんにちは
- 早春
詩集に添えて 菅原克己
あとがき 藤原義信