青い水 結城信一

f:id:bookface:20171010220303j:plainf:id:bookface:20171010220125j:plain

 1955年8月、緑地社から刊行された結城信一(1916~1984)の第1著作集。装幀は岡鹿之助(1898~1978)。

 

 私の仕事は私の病気と一緒にはじまった。朝眼がさめたときに前夜よりも一層烈しい疲れをおぼえはじめた私は、學校へも滅多に行かなくなり、街の中を歩くことからも遠ざかつた。終日陽の當らない二階の小さな部屋で殆んど本を讀むだけで暮してゐたが、坐つてゐることも苦痛だつたので、並べた二枚の座蒲團の上に、物憂い熱つぽい謳を横たへてゐるより他はなかつた。やがて私は東京に近い或る陰気な海逅に轉地した。私は其處でも讀書に日を送つてゐたが、私に直接ささやきかけてくるものは何ひとつなかつたから、私の方で少しでも愛情のもてるものなら、心から愛してやらうといふ気になつてゐた。私は二十一だつた。
 そのことは十数年を經た今も、疲勞の質が變つたことと、私自身かなり薄汚くなつてしまつたことなどを除けば餘り變りはないやうに思はれる。私は去年の自分の小説の中で、次のやうな文章を綴つた。

「私は春よりも、まだ寒さの殘つてゐる早春を愛する。あたたかい秋よりも、嚴しい晩秋の方を好む。また私は、窓を深く閉ぢ部屋の扉も堅く錮して一人寵る、冬の夜の数時間を限りなく愛するやうになつた。私はときどき街の花屋から紅い薔薇の蕾を買つてきた。私は冬のともしびの下で少しづつ膨らんでゆく薔薇の美しさと香気と、その優しさとを愛した。」

 此處には、私の總てではなくても一つの姿がある。私の仕事は私の病気と一緒にはじまつた、と初めに書いたが、私は十年間何も書かなかつた。病気になつたために私の人生は變つてしまったが、私は一方で死に親しみながら、一方では多くの古典に親しんでゐたのであつた。私が人を集めず、またどの仲間にも入らずに一人でゐられたのは、古典があつたからであらう。私は烈しい孤獨に疲れながら、更に深い孤獨を求めてゐた。古典に教へられることは、私にとつてやはり仕事であつたにちがひない。
 私が眞劍に書く意欲を持ちはじめたのは、戦局が極度に悪化してきてからのことであつた。疎開をしなかつた私は、あのおそろしい東京の空襲の繰返しの下で、小さく蟲のやうに生きてゐた。恐怖と絶望の日日の中で、私は時間さへあれば書いてゐた。何かが私の内に宿ったのにちがひない。自分が灰になるとき、書いたものも灰になるのだらうと思ひながら、私は書かずにゐられなかつた。二百枚を書き百首の短歌が出来たとき、終戦になつた。
 病気を體驗せず、また空襲體驗もなかつたら、私は果して今の道を歩いてゐたかどうかは解らない。また文學の道を選んだとしても、別の選び方をしたかも知れない。私は自分自身に非常に不満を抱きながら、心の何處かでは少しだがやはり自分を信じてゐる。私はときどき自分に向って云ってみる。「ではもうそろそろ何か出来てもよささうなものだ」
(「あとがき」より)


目次

  • 流離
  • 秋祭
  • 冬隣
  • 青い水
  • 交響變奏曲

あとがき

 

NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索