詩誌「灌木」後記 一九五三年~一九八三年 喜志邦三

 私家版として刊行された喜志邦三(1898~1983)のエッセイ集。詩誌「灌木」後記集。

 

 この本に収めた文章の筆者喜志邦三は、一八九八年(明治三十一年)三月一日、大阪府堺市に生れた。少年の頃に詩作を始め、当時の投書雑誌『文章世界』などにしばしば作品が掲載された。長じて東京に出、早稲田大学英文科に学ぶ一方、三木露風などの知遇を得た。一九一九年、大学を卒業して『大阪時事新報』の記者となったが、一九二五年、神戸女学院に転じ、大学課程の講義を担当した。一九六三年、学制改革によって神戸女学院大学と名を改めていた勤務先を停年で退いたが、一九六六年から一九七五年まで、園田学園女子大学で再び教壇に立った。それ以後は勤務先をもつことなく、執筆活動に専念した。一九八三年(昭和五十八年)五月一日夜、にわかに心臓の苦痛を訴え、医師の処置によって一旦はことなきを得たが、翌二日早暁、睡眠中に、兵庫県西宮市の自宅で息を引取った。八十五歳であった。遺族は妻愛子、大西善次郎に嫁した長女矩子、次男房雄、三男暁雄、そして長男の私である。長男と次男の間に次女朋子がいたが、第二次大戦中に早世した。
 父の永眠に際して弔意を表して下さった方々に対して、私どもは、何か故人にふさわしいかたちで御挨拶申上げたいと思った。最初に考えたのは、父の詩集を編んでお送りすることであったが、原稿の整理にかなりの時間がかかるため、差当ってはこの計画を断念し、詩誌『灌木』に父が発表した「後記」を一冊の書物にまとめることとした。
(「あとがき/喜志哲雄」より)

 


目次

  • 一九五三年 第一号、第二号
  • 一九五四年 第三号、第四号、第七号~第十一号
  • 一九五六年 第二十八号~第三十七号
  • 一九五七年 第三十八号~第四十九号
  • 一九五八年 第五十号~第六十一号
  • 一九五九年 第六十二号~第七十三号
  • 一九六〇年 第七十四号~第八十五号
  • 一九六一年 第八十六号~第九十七号
  • 一九六二年 第九十八号~第百九号
  • 一九六三年 第百十号~第百二十一号
  • 一九六四年 第百二十二号~第百三十三号
  • 一九六五年 第百三十四号~第百四十五号
  • 一九六六年 第百四十六号~第百五十七号
  • 一九六七年 第百五十八号~第百六十九号
  • 一九六八年 第百七十号~第百八十一号
  • 一九六九年 第百八十二号~第百九十三号
  • 一九七〇年 第百九十四号~第二百五号
  • 一九七一年 第二百六号~第二百十七号
  • 一九七二年 第二百十八号~第二百二十九号
  • 一九七三年 第二百三十号~第二百四十一号
  • 一九七四年 第二百四十二号~第二百四十六号、第二百四十八号~第二百五十二号
  • 一九七五年 第二百五十八号、第二百五十九号、第二百六十三号、第二百六十五号
  • 一九七六年 第二百六十六号~第二百七十号
  • 一九七七年 第二百八十二号、第二百八十四号、第二百八十五号、第二百八十七号、第二百八十八号
  • 一九七八年 第二百九十号、第二百九十二号、第二百九十三号、第二百九十六号、第三百号、第三百一号
  • 一九七九年 第三百二号、第三百三号、第三百五号、第三百七号~第三百九号、第三百十一号~第三百十三号
  • 一九八〇年 第三百十四号~第三百二十一号、第三百二十三号~第三百二十五号
  • 一九八一年 第三百二十六号~第三百三十三号、第三百三十五号~第三百三十七号
  • 一九八二年 第三百三十八号~第三百四十五号、第三百四十七号~第三百四十九号
  • 一九八三年 第三百五十号~第三百五十五号

あとがき 喜志哲雄


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