レゴリス/北緯四十三度 林美脉子詩集

 2021年8月、思潮社から刊行された林美脉子の第9詩集。写真は著者。刊行時の著者の住所は札幌市。

 

 ヤサジロウは私の祖父である。明治二十七年に二十歳で、家族と共に石川県から屯田兵として北海道空知郡瀧川村に移住入植した。その後、日露戦争二等兵歩兵として従軍、明治三十八年三月十日「奉天(現在の中国遼寧省)の会戦」で、右前膊から上膊の下貫通銃創を負った。大正二年まで屯田兵手牒の記載があるので、それまでは屯田兵として軍に所属していたことが窺える。しかし祖父の人生を記録としてたどれるのはそこまでである。
 私の記憶に残る祖父は、常に作務衣のような着物を着て、炉端や石炭ストーブの傍に座り、煙管(きせる)で煙草を吸いながら繰り返し幼年期の思い出話をする姿である。彼の右上腕には赤子の頭ほどの脂肪腫瘤があり、それは日露戦争で負った傷によるものだということは母から聞いていた。けれども祖父自身は、移住の様子や戦争のことは一切語らなかった。
 私は小学校二~三年生の頃一度だけ、「鉄砲玉が当たった時は痛かったの?」と祖父に聞いたことがある。しかし彼は胸まで伸ばした白い顎髭をなでながら、少し驚いた表情を浮かべたが、すぐいつもの穏やかな眼差しに戻り何も答えなかった。私は時々仏壇の引き出しにあった、お国から賜ったという古く小さな勲章を取り出して、鉄砲の玉が当たったらどんな風に痛いのだろうかと想像し、それを首に掛けたり外したりしてよく一人遊びをした。私が十八歳(高校三年生)の時、祖父は家族に囲まれ自宅で老衰のため息を引き取った。豊かではなかったが長患いもせず、静かな晩年を過ごした八十九歳の死だった。今思えば祖父の語らなかったことは、あの右上腕にあった脂肪瘤に少しずつ溜まっていったのだろう。沈黙の中には言葉にならない多くの思いがあることを、私は祖父から学んだ。
 私の手元に残っている祖父の遺品は、この「屯田兵手牒」だけである。従って私は「屯田三世」である。私は多分、この北海道に住んでいる先住民の方々に対しては「加害者の末裔」であり、現在この地に住んでいるので、今も「加害者」であるに違いない。
 それらについての贖罪の気持ちがこのような詩篇を書かせたように思う。しかしまた、ジェンダーの視点から考えると、女性に生まれてきたというだけで、被抑圧的な立場に置かれてこれまで過ごしてきたとも言える。自分の意思で選択できない生存の領域にあることで、その出自や属性を理由に、いわれなき差別や暴力を受けることがあってはならないが、今日に於いてもそれらは終わることなく続いている。誰しもが加害者にも被害者にもなりうるという自覚と、あらゆる存在に対する尊厳を尊重する意志を持つことこそが、それらをなくす唯一の方法ではないのか。そういう意味で、ここ北海道北緯四十三度に生まれ育った私のもう一つのサーガとして、沈黙したまま名もなく逝った人達へこれらの詩篇をここに差し出したい。
(「あとがき」より)

 

目次

  • 冬の鬼火
  • 氷華(タイヤモンドダスト)の朝
  • レゴリス/北緯四十三度
  • 赤鉄橋
  • 廃線鉄路
  • 雪の鳴咽
  • 男根塔(オベリスク
  • 鶴の舞(サロルンチカブリムセ)

  • イヴ
  • 函・吐くII
  • 金縛り
  • 電子ニンゲン
  • 対岸のダー
  • 飛ぶ屯田兵手牒

献詩
あとがき

 

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