海潮音 八匠衆一

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 1982年2月、作品社から刊行された八匠衆一の長編小説。写真は築地仁、装幀は菊地信義

 

 昨秋刊行した「地宴」の後記にも書いたように、「地宴」は発端としての第一部。既刊「生命尽きる日」は、その終焉を描いた第三部。本篇「海潮音」はその中間の第二部に当るものである。前後した発表の仕方、書き方になったが、これで一応仮りにだが一つの主題を書き終えたことになる。仮りにと断ったのは、書き終えてみると、性劣非才、なに一つ書き終えていないのではないかという気もするからである。ただこれで暗い光のなかで出会い、暗い光のなかで別れて行った故人に対する一部の申し訳けは立つのではないかとも考えている。
 奇特御厚志の方がいて、もしこの三部作を通して読んで頂けるとするなら、著者としてその方々のために微志を述べて置かねばならないのだが、この三部作のテーマは、キリスト教でいう、神が存在するや否やという一点にかけたつもりである。信じるか信じないか、それ以外のことは空論に等しいのだが、それを承知しているための難しさもあった。ただ三部作を通しての女主人公は、教会を仮りの場所とし、イエスの弟子として聖書の教え通りに生きようとしていたし、見事なほどその通りに生きたように思える。そのために悲劇的とも思える終焉を迎えたのではないかとさえ考えている。
 最後に至り、イエスが最も近い弟子達からも背かれて処刑されて行ったように、事柄は違うが、本篇の女主人公もまた、最後の心の拠りどころとしている教会や、その仲間達からも、最後には背かれる形で死んでゆくのである。最も近い者から最も惨酷な形で背かれる。本当は信仰という形のなかにこそそういう悲劇的な要素が潜んでいるのだろうが、あまりにイエスの死に方に似ているようにも思える。私はそのことについても書きたかったのである。イエスを売ったユダの立場からとしてだがこういう小説を私小説というなら、本当は破調私小説というのかもしれない。
(「後記」より)

 
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