田舎第一輯 榎本榮一詩集

f:id:bookface:20210225173403j:plain

 1937年5月、私家版として刊行された榎本榮一の詩集。装幀は増田千代松。刊行時の著者の住所は大阪市西区

 

 こゝに私の十年間の詩篇を輯録するに當つて、今の私の心持を、順序なくしるしてみたいと存じます。
 私の心に詩があることを、はじめて知らせて下さつたのは生田春月氏でありました。こゝにはその頃より今日に至るまでの、作品のすべてを、制作順に排列致しました。顧みて恥かしいものもありますが、それも猶私の幼い足跡を知つて頂くのに必要なものであらうと思い、かまはず輯録致しました。而してその春月氏も今は亡く、感慨無量なるものがございます。
 私は時々、この頃の詩と散文と、どう異ふのかといふやうなことを聞かれますが、それに就いて、私の小さな考へを述べるよりは、本書を静かな心で、讀み味うて頂くのがよいと思うてをります。不充分ながらも、これらの作品には詩が現はれてゐるので、詩と散文との異いといふやうなことも、おのづからうなづいて頂けるのではないかと思うてをります。
 この頃でもやはり詩の雑誌や詩集が出版され、若い熱心な詩人達が相當盛んに活動されてをるらしいが、然しそれらの詩を、たまたま知人友人などに見せてみましても、どうふむづかしい言葉使いなどが多く、何となく親しみ難いといふやうなことが多いやうに思はれます。それはそれとして尊い存在であるとは思ひますが、私の現はさうとし開かうとする世界とはまた異なるやうでございます。
 本書が今の詩壇にどう響くかといふより、寧ろもつと廣い範圍の、詩どころのある人々にどう響くか、それらの人々の心に多少と觸れるものがあり、またいろいろな御教示に接し得るであらうかといふことに、私の期待と願いとがあるのでございます。
 詩集といへば詩集――これはまた私の貧しい求道記録であり、既知未知の懷しい人々へおくる、私のいろいろな心のすがたであり、更にまた一人の世間知らぬ病青年が、ある時は死にたいと思ひ、ある時は家も母も弟妹もみな捨てて逃れたいと思ひつゝ、逃れられぬまゝに、いつしか商賣といふものが有難いことになり、母弟妹が有難いことになり、世間一切のことがだんだん受け入れられるやうになつた、牛生の自叙傳であり、懺悔錄でございます。
 私は宗教家、文士、學者、サラリーマン等の家に生れず、たゞ一小商賣人の子として生れたことを、この上もなく有難いことに思ひ、光栄に思ふものでどざいます。然もそれが多くの人を使ふといふやうな商賣でなく、自分が主人兼小僧といふやうな立場で、一つ一つ心をこめてやるところの商賣道を體驗させて貰うたことは――世の中の眞實相に、少しづゞでも觸れさせて貰うたことは――何としても有難いことでどざいます。
 たとへ一篇の旅の詩にしましても、かうした日々の細かい生活を、身に味うた、賜物ではないかと思はれます。集中、旅の詩が多くありますが、これもやはり父よりの遺傳らしく、何かしら自分ならぬ力に、引かれて行くものゝやうでございました。
 申すも愚かなことですが、私の一切の希望も理想も、自分はやがて健康になるであらうといふ假定の上に築かれてをりました。さらして私は肉體的に、精神的に、力限りの工夫を凝らしつゝ、やがて健康になるであらうといふ望みを、捨てように捨てることが出來ませんでした。
 けれども十年工夫を凝らして、精も根も盡き果てゝ、もはや自分の力で、どうすることも出來なくなり、どうしようとも思はなくなりました。
 それは昨年の秋のことでどざいました。ところがそれから私は何となく粘り強い力を感ずるやうになり、商賣も心から出來るやうになり、人々の話も一層謙虚な氣持で聞くことが出來、どんなことをしても軀のことが氣にかゝらなくなりました。これがいかになりゆくかは、自分にはまだ解らぬのでございますが、これまでたゞ向うに見えてをつた光りがなくなり、ぐるりは一切暗黑で、氣がつけば、このどうする力もなくなつた自分の、手もと足もとが、ほのぼのと明るくなつてゐるのでございます。
 このやうな肉體を持ち、このむづかしい世の中を渡つてゆくのは、いかに辛く困難なやうに思へても、今はその怖れに捉はれることなく、たゞ日常生活の中に、深く身を没してゆきたいと存じます。
 妻を持ち、子を持ち、家庭を持つことが、いかに煩はしく複雑なやうに見えても、それが人間に與へられた大道であるならば、今はそれを回避しようとは致しますい。
 この「田舎」第一輯の原稿も、これに續く第二輯が出來ないならば、破棄したいと考へてをりましたが、今は續いても續かなくても、たこのまゝを、世の人々に、捧げたいと存じます。
 おもへば私に、この肉體よりの解脱なかりせば、遂にわが世に處するの道を失うたかもしれない。このどうする力もなくなつた私の眼を開き、足を立たせて、この複雑きはまりない世の中を、怖れ氣もなく歩ませて下さる、深い限りないお力に、たゞ合掌歸命するばかりでございます。
(「序」より)

 

 

目次

第一篇

  • 胃病者の詩
  • 山に住む子供
  • 秋の河原
  • をりをりの詩

第二篇

  • 汽車の笛
  • 海の心
  • 恩惠
  • はたけの子ども
  • 感謝

第三篇

第四篇

  • 松下草上詩篇
  • 草の中

第五篇

  • 淡路巡禮詩篇
  • 何もないところ
  • 伊勢紀行詩篇

第六篇

第七篇

  • 南海紀行詩篇
  • 商賣をしつつ

第八篇

  • 山國をめぐりて
  • 病める妹へ

第九篇

  • 亡父と語る
  • 梨山の歌

第十篇

  • 病難
  • 賢き女中


NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索