資料「金時鐘論」

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 1991年9月、金時鐘集成詩集『原野の詩』を読む会から刊行された金時鐘解説書。装幀は粟津謙太郎。

 

 金時鐘集成詩集「原野の詩」が近刊される。
 四〇年間にわたる金時鐘の詩の足跡がようやく一冊の詩集に集約され、日の目を見ることになったのだ。
 それに先がけて、私たちは「詩集『原野の詩』を読む会」を発足させ、一つの作業として、「資料『金時鐘論』」を発刊することにした。詩集をできるだけ多くの人の手に渡らせたい、読んでもいただきたい、と考えての発刊であることは勿論のことだが、同時に、在日朝鮮人に対し、政治的には徹底した差別を行政化しているこの日本という国にもう一度、目を向けてみたい、というそんな思いもあってのことだ。
 「原野の詩」には金時鐘の年譜も収録されている。力不足ながら私が担当した。年譜作成当初、「朝日共同宣言」が、金時鐘の母国である朝鮮民主主義人民共和国と、日本の自民・社会党の両代表団との間で調印されるなど、考えもしなかった。時代はめまぐるしく予測できないかたちで動いているのだと痛感するが、年譜作成の後、私は二つのことをつよく感じた。
 まずは、金時鐘の生い立ちをたどることは、とりもなおさず、日本の昭和史をたどることとほぼ同義であったという点である。日本の昭和史なしに金時鐘の年譜は成立しない、と実感したほどだ。年譜作成期間中、その時間の大半を朝鮮国と日本国の関係をさぐることに費したことも、また一つの事実だ。これはどういうことなのだろうか、とあわせて考えないわけにはいかない。
 そして、金時鐘はなぜ日本語で詩を書き続けてきたのか、という点である。一九六八年二月二〇日、南アルプスのふもと、静岡県寸又峡温泉で「金嬉老事件」が発生した。一人の在日朝鮮人清水市内のクラブ「みんすく」で暴力団員を殺害し、寸又峡「ふじみや旅館」にたてこもり、日本における在日朝鮮人の不当な、その存在性を告発した。犯罪を代償にしてである。六月二五日、「金嬉老事件」第一回公判がひらかれた。「金嬉老を裁けるか」というのが弁護側の闘う姿勢であった。その日、金時鐘は特別証人の一人として陳述した。<彼キムヒロならずともそのような極端な行為にかきたてられる衝動は、私自身の内部にも古くからあるものです。正直に言って、朝鮮人ならだれしもが持っているであろうところの、日本に対する感情のように思えてならないからです>と。
 意識を向けぬ者には聞こえるはずもない声がある。その内部に起っている声に耳を傾ければ、想像的な、ふくらみをそなえた言葉が聞こえてくるにちがいない。言葉は私たち人間にとって、呼吸の次にあるほど根本的なものだ。言葉によって幼児は成長する。金時鐘は<意思表示の味方であらねばならない私たち在日朝鮮人の「日本語」が、社会との疎通を図る力としては断然弱くて、「在日朝鮮人」の存在性をねじまげ、抑圧するものとしては非情なまでに強大な力である>と、この金嬉老事件に関連して、在日朝鮮人にとっての日本語の機能を指摘した。金時鐘の存在を通して多くのことを知らされる。「原野の詩」には日本人宛の詩句が、随所にちりばめられてあるにちがいない。
(「あとがき/野口豊子」より) 

 
目次

  • 生の本質的価値への希求 松原新一
  • 復元と対峙と 磯貝治良
  • 『原野の詩』との対話 高野斗志美
  • 民衆の底辺から 梁石日
  • 講演 金時鐘 現代社会の生と詩 ほんとうのことから遠すぎる

あとがき 野口豊子

 

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