1964年11月、新日本出版社から刊行された江馬修(1889~1975)の短編小説集。
巻頭の「延安賛歌」は、昨秋「文化評論」の小説特集号に発表したもので、この創作集の中ではもっとも新しい作品である。この作は三年前、私が同志たちと共に中国を友好訪問したときの記念としても忘れがたいものであるが、同時にまたいわゆる中ソ論争が日を追うて激化し、深刻化しつつあった昨年の真夏をとおして書きつづけたものとしても私には特別な意義がある。したがっで、私はこんどこの作品を本書に収録するにあたって、存分に作をくわえて、いっそう充実したものにしあげておこうという熱望を押えることができなかった。そのために雑誌で発表した最初の稿が、四百字づめで七十枚前後にすぎなかったのに、改作したものは百七十枚にたっした。つまり九十枚も延びて、もとの倍以上の長さになったわけだ。作者としては、改作は前作よりずっと良くなったつもりであるが、その反面、私は中国のある親しい同志にたいして申し訳のないことをしでかしてしまった。
じつは私が改作を終わりかけた時分、北京大学の卞立強同志から私の妻のところへ手紙がとどいた。卞同志は「石川啄木詩歌集」や「小林多喜二」の翻訳者として、また文芸評論家として日本にも知られているが、その手紙の中で私の「延安賛歌」の中国語訳を完了したことを報じてあった。私は(しまった!)と思った。私としては改作を終わってから、卞さんにもそのことを知らせがてら手紙をかきたいと思っていたのだが、私の報告がおくれたばかりにこういう手ちがいが起きてしまったのだ。私は卞さんにたいして心から申し訳ないと思うと同時に、卞さんのせっかくの好意と労作をじゅうぶん意義あらしめるために、この際改作を公表することを控えようかとも考えてみた。私は思い悩んで二、三の親しい仲間に相談した。その結果私はこういう考えにおちついた。卞同志の訳された「延安賛歌」は、私としてはやはり精いっぱいの努力をかたむけて書いたもので、「文化評論」に掲載され、予想以上に多方面から好評をおくられたものだ。だから、改作以前の「延安賛歌」がそのままの形で中国へ翻訳紹介されることに、作者として何ら異議がないばかりでなく、やっぱりうれしいことであり、ありがたいことなのである。とはいえ、私の手ぬかりのために、卞同志に改作を始めたことをいち早く報告しなかったことをまことにすまなかったと思う。ここに心からお詫びしたい。
「紅花崗」は一昨年二月の「文化評論」にのせたもので、「延安賛歌」とともに訪中旅行の記念の作品である。本集への収録にあたってやはりいくらかの筆をくわえた。この作には二つの中国訳があり、一つの訳者は周斌さんで広州の「羊城晚報」にのり、もう一つは李芒さんの翻訳で、天津市で発行される文学雑誌「新港」にのせられた。
「長次郎の妻」は、私の「山の民」が初めて東京で出版されたあと、まだヒダの高山にいて執筆したもので、「人民文学」の創刊号(一九五一年一一月)にのせられたものである。私は歴史小説をいくつか書いたが、これがただひとつの短編ものなので特に本集に収めることにした。
「徳右衛門の家」は本集ではじめて公表する作品である。砂川における基地拡張反対闘争がはげしくたたかわれている最中に、立川に住んでいてかいたもの。けっして作品が気にいらなかったわけではないが、ある事情のために今日まで発表しないでおいたものである。「長次郎の妻」とともに、私の郷土ものの一つとしてみていただきたい。
あとの「ゆらぐ大地」と「血の九月」は、この二作だけで本書の半分をしめる約三百枚の長さにたっするが、どちらも一九二三年の関東大震災と、それに伴った白色テロルをテーマにしたものである。ことしの九月でその四十一周年をむかえることを思えば、この二つの作品はすでに歴史小説のうちにかぞえてよいかも知れない。しかし、一九三〇年に私がこの最初の稿をかいた時には、むろん現代を扱う観点からかいたものである。そんな風で、この二つの小説の由来は相当にいりくんでいて、長い。
今はもう年月の記憶もたしかでないが、あの恐ろしい大震災の数年あとに、当時はまだ日本の植民地であった台湾の台湾日報社から私は連載小説の執筆をたのまれた。そこで私は「羊の怒る時」という題で、約百回にわたって大震災における自分の体験の記録をかいた。むろん、私がマルクス主義者となる以前のことであるから、甘いヒューマニズムの見地から扱ったものにすぎない。その後私の思想は急速に左翼化していった。そして一九三〇年の夏には、私は新しい進歩的な見地からふたたび大震災を作品として扱ってみる意欲を感じた。こうして「羊の怒る時」の約前半を新しく書き改めたのが、この「ゆらぐ大地」となった。この題はこんど初めて用いたのであるが。
「ゆらぐ大地」につづいて、私は同じ夏「血の九月」をかいた。しかしこれは「羊の怒る時」とは全く連関のないもので、当時新しくえた特殊な材料によって初めて作品化したものであった。
よまれた方にはすでにお分かりのように、この作品は、社会主義者河合義虎ほか十人前後の労働者が虐殺された、いわゆる亀戸事件に取材したものである。そのとき、たまたま河合の家に行き合わせていた十六歳の少年工があって、少年もみなといっしょに亀戸署に検挙された。そして例の九月三日の夜、河合らといっしょに虐殺の場までひき出されたが、まだ子どもだからというので、一刑事の計らいで命を助けられた。私は偶然のことから、家へよくやってくる一労働者からこのエピソードを聞き知った。同時にその少年は成人して今も生きていることも知った。私はぜひその人に会いたいと思った。さいわい労働者の熱心なあっせんのおかげで、ある日その人は代々木初台の私の家をたずねてくれた。残念なことに今では私もその人の名前を失念してしまったが、仮にY君とよんでおこう。震災後すでに七年をすぎていたので、Y君はもう二十二三の、やせ形の、やや青白い、瀟洒な青年になっていた。彼はその時、小石川方面の場末に近い映画館で活弁をやっていると言っていた。私はまる一日、Y君をとらえて離さなかった。そして震災の中で彼が経験したこと、とりわけ三日夜の亀戸署の緊迫した情況について根ほり葉ほりきき出した。こうして私は「血の九月」をかいた。この中の、河合ら虐殺前後の亀戸署のありさまは、この生きた証人の口述にしたがって描いたものである。なお、地震と同時に深川方面の罹災者が、四方から迫る猛火に追われて逃げまわる情景を描くにあたっては、私の古い知人である福島善太郎氏の罹災手記を利用させてもらった。むろんそのままではなく、自分流に変えてはいるが、この点を付記して謝意を表したい。
ところで、「ゆらぐ大地」「血の九月」とかきあげはしたものの、折から弾圧に弾圧とつづいた戦前の暗い時期にあたっていたので、こんな血なまぐさい恐ろしい作品をどこでも出版してくれようとはしなかった。そのためにこの原稿三百枚あまりは、細い紐で幾重にもぐるぐる巻きにされたまま、あの長い戦争期間を、わが家の押入れの奥で埃まみれになっていた。この間に東京から田舎に移り、さらに住居を転々としたが、原稿を紛失しなかっただけがせめてものもうけ物であった。
終戦後、それも一九四七年になって、(当時私はまだヒダ高山に住んでいたが、)よく私の所へやってきた朝鮮の同志朴泳欽君に、何かの機会でこの埃まみれの原稿を見せたものだ。彼はひじょうに興奮した。そして在日本朝鮮民主同盟岐阜県支部の同志たちと相談して、この原稿を出版することに決定した。そして全巻を「血の九月」と題して、非売品として、一九四七年八月に出版された。もとより地方での仕事であったし、部数も千部ぐらいだったと思うが、執筆後十七年の歳月の後にこの作が朝鮮の同志たちの熱心な骨折りによって、初めて活字となって世に出たことに私は心から感謝した。ところがこの出版でいちばん骨を折ってくれた朴泳欽同志はまもなく南朝鮮へ帰って行った。それっきり消息がたえてしまったので、陰ながら身の上を心配していたが、その後彼がパルチザンに参加して活動中に殺されたということを風のたよりにきいた。私はいま、日本の党の配慮によってこの作品がふたたび世に現われようとしていることを朴君に報告して、よろこびを分かちあえないことをつくづく残念に思う。
一九五三年九月、関東大震災三〇周年を記念するために、私は「血の九月」をいちおう書き改めて、雑誌「人民文学」で発表した。「血の九月」は発表後まもなく、新中国で翻訳紹介されたときいているが、訳者も、掲載誌も私にはまだ分かっていない。
昨年八月二十三日のアカハタ紙に「関東大震災四〇周年にちなんで」の中で、終わりの方に私はつぎのように書いた。「……こうした恐るべき一連の事実と真相が明らかになるにしたがって、それまでの私の人道主義的な世界観は根底からぐらつき始めた。私はいつとなくマルクスの著作を研究し、レーニンの(国家と革命)なぞを読みふけるようになってしまった。けっきょく私は、関東大震災の大虐殺事件を転機として、共産主義と革命への進路をえらぶようになり、今日に到っているのだ」
こういう私の言葉が、どこまで真実かどうかは、「ゆらぐ大地」と「血の九月」をよんでもらえば判断していただけると思う。
(「あとがき」より)
目次
- 延安賛歌
- 紅花崗
- 長次郎の妻
- 徳右衛門の家
- ゆらぐ大地
- 血の九月
あとがき
作者年譜