09年11月、こぎと堂から刊行された沖野裕美の第5詩集。著者は今帰仁村天底生まれ。
セクションという言葉を細野真宏氏の経済雑誌ではじめて知ったとき、これは詩のタイトル代わりに使えるかもしれないとひとり合点してセクションの塊をシリーズ化してしまい、いつのまにかセクション23を数える段階まできてしまった。
ところが詩集をまとめる段になって、もともと、この単語は領域とか部門だとか区画という総括語であって、詩の題名として定着させてしまったことは本人の独断が強引すぎたのではないかと思案する羽目になり、結局、セクション1からセクション2の詩群を読み返してそれぞれに合わせた題名を表示すべきと痛感せざるをえなくなった。
詩の言葉をセクションという領域に放りこむと、解放されるわけではないが、かなり柔軟に言葉の刺し網を投げ出すことができたかのような、大いなる錯覚を味わっていた感がある。
三年ほど季刊誌「あすら」に掲載し続けた独断的詩作方法ではあったが、この単語に寄りかかって言葉をかきまわしていた気がするから、錯覚癖もあながち悪くはなかったと考えている。
しかし荒々しい押し込みの詩語が目立ったのか、このシリーズを連載している間は、「詩人乱調す」とか、「沖野復調す」とか、「最後にたちどまった詩句は、詩人らしくない平板すぎる投げだしではないか」とか、「ビリビリふるえる詩語があってしかるべきと思う」といった、解答を示しはしないジャブをきかせた刺激的なハガキを何枚ももらい、際にずり下がって落ちこんだり、こきざみに鼓舞されたりしながら、ものみなを巻き込んでがんじがらめに拘束する絶対者を考察したいと思った。
詩集の表題をセクション12の「犠牲博物館」と決定し、セクション13に「ソング」を、セクション14に「死卵詩篇」を差し替えてねじりこみ、「犠牲博物館」のあれ地に立ちはだかる、言葉の砂上楼閣を強固にする形態を浮上させようとひそかにもくろんだ。
さらに死んだ霊魂と生きた霊魂が渾然一体となって住む島嶼において、それらを凝視することが、精神を突き動かす源になっているのだと念じて霊魂達のざわめきを要所に撒き散らした。
詩集表題の発案者である八重洋一郎氏に、無理を承知で作品解説をお願いしたところ、快諾してくださり、制約されたページ枠いっぱいに、沖野裕美に関する推論と詩集「犠牲博物館」の要点をあますところなく述べられた。鋭く事細かに、様々な暗示を示唆する解読を付与された、沖野裕美と詩集「犠牲博物館」を、あらためてふりかえっているところである。
(「おぼえがき」より)
目次
- セクション1 鳥の嘴(トゥイヌクチィ)
- セクション2 恐竜の歯形
- セクション3 人身御供
- セクション4 ふり積もる
- セクション5 こわばる
- セクション6 ひそむ
- セクション7 あるきまわり
- セクション8 ゆめぬめり
- セクション9 働きつかれて
- セクション10 公設市場
- セクション11 マリアマリア
- セクション12 犠牲博物館
- セクション13 ソング
- セクション14 死卵詩篇
- セクション15 海墓地
- セクション16 善蔵の頭蓋骨
- セクション17 のびのびとぽわぽわ
- セクション18 わたしらの霊魂
- セクション19 始祖神の旗
- セクション20 燃える眼差し
- セクション21 すみれ色の霊魂
- セクション22 ぶったくわった
- セクション23 現象
解説 八重洋一郎
おぼえがき 沖野裕美