棕梠の葉 川島多一歌集

 1977年10月、短歌新聞社から刊行された川島多一(1913~)の歌集。

 

 私は大正二年群馬県の片隅の農村に生れました。米作と僅かな養蚕を営む農家の八人きょうだいの末子でした。物心ついたときはすでに父は亡くなっていました。
 小学校を卒える春のこと、背中の一個所に紫色の斑紋が現われ、忌わしい病気にかかっていることを知らされました。不幸の始まりでした。病魔が体の表面に見えてくると、周囲の冷たい眼は、私と家族に集中しました。その頃兄や姉たちの結婚期でしたので、病気の私がいるために色々な面倒な問題が起り、一家は相次ぐ苦難にさいなまれました。苦しさのあまり、私は幾度も不吉なことを考えました。そんなとき、母は私の手をとって泣きながら励ましてくれました。
 徴兵検査の年に、療養所に入るようにとの当局の指示がありました。そこで私も決意し、家族に別れを告げ、死んだつもりになって栗生楽泉園の門をくぐったのでした。が、療養所は案に相違して、周辺の自然は美しく、所内では誰にも気兼も要らず、また心の通う友人も出来ましたので、第二の故郷を探しあてたような思いがしました。昭和九年七月のことでした。しかし、やがて日華事変、さらには太平洋戦争へと、世の中は急変していきました。療養所も戦時体制にまきこまれ、患者たちは奉仕作業にかり出され、医師看護婦は次々に動員され、食糧、物資は極度に不足し、治類薬(当時は大楓子油)も減量、他の薬剤は殆ど皆無の状態になりました。そしてその頃衰えはじめていた私の視力は急速に弱まり、起居にも困るようになって、十九年には不自由舍入居の身となりました。十二畳半の寒い部屋に六人の重症者が雑居し、互いに看護し合いながら、暗闇の中で来し方行末を語り合った日々のことは忘れ得ません。ようやく終戦を迎えましたが、その後も飢餓状態は続き、遂には年間の栄養失調死者数百三十八名という悲惨な記録を残してしまいました。
 窮乏に辛くも耐えぬいた私も、昭和二十一年の初冬に強烈な神経痛と共に再び眼を患い、一か月位でろうそくが燃えつきるように失明してしまいました。しばらくは何をする気力もなく茫然としていましたが、そんな時新憲法が公布されました。それまで内務省警務課の下で罪人扱いされていたものが、開放され、さらに選挙権を獲得し、行使することを得たのです。また楽泉園の「特別病室事件」として新聞にも報道された我々患者の一連の人権闘争で輝かしい勝利を克ち得たことも、生きることへの貴重な経験となりました。さらにまた新薬プロミンの出現は我々に決定的ともいうべき医療体制の革新と生命の保証をもたらせました。折柄、私は宿胸の胃腸障害が悪化して、手術を受けましたけれども、経過良好で三か月程で回復しました。これも新時代の恵みと申すべきでありましよう。
 私は不幸な病いに悩み、生きることに苦しみ、死に直面したことも度々ありましたが、いつも大きな力によって救われ、支えられて参りました。それはキリストの愛と訓えです。私は昭和十一年四月入信受洗しましたが、それ以来優れた聖職者と心篤い先進者たちの教化と友愛に抱かれて、心豊かに毎日を過ごしてきたことはまことに大きなみ恵みであります。私が入久園した翌年、草の救類事業に献身せられ、いまも教母として深,追慕されるコンウォール・リー先生に、ただ一度お目にかかったことがあり、それがまた最後のお別れともなったのでありますが、リー教母様への敬慕の思いはそのまま私の信仰に繋がっているものと信じます。この拙ない歌集のなかに、いくつかの信仰に関する歌がありますが、私の小さな喜びと感謝の声として受けとめて頂ければまことに幸いと存じます。
 終戦後失明した私は、昭和三十五年秋に、医師の勧めに従い開眼手術を受けました。長い間眠っていた視神経の復活は容易ではなかったのでしたが、三週間程してうっすらと物が見える様になりました。その時の嬉しさは今も脳裡に刻まれております。しかし昭和四十五年からふたたび少しずっ視力衰退して、翌年再度失明してしまいました。悲しいことですが、変形下垂の足のことと共に、致方ないと諦観しております。
 これより先、昭和四十年、すでに私は五十歳にもなっていたのですが、そこで私は私なりに人生の意義を考え、私のような者も何かせねばならぬと思いました。そして先輩や友人のすすめもあって、思いきって短歌の道に入り、高原短歌会の一員に加えて頂きました。現代短歌については少しの素養もなく、始めは随分苦労しました。途中で自信をなくしてやめようと思ったこともありましたが、また思い直して私なりの精進と勉学を続けて参りました。早いもので、あれから十二年経ちましたが、その歳月を振返り、おのが足跡をたどってみるとまことにお恥かしいばかりであります。しかし短歌は私にとっては生甲斐であり、作歌の苦しみは逆に喜びとなるのであります。今後も勉強を重ねて、少しでも短歌がわかる様になりたいと願っております。
 さて、この度先輩知友諸氏のおすすめもあって、貧しいながら歌集を出版することになりました。歌歴も浅く、未熟な作品ばかりで、歌集を出すなど思いもよらないことですが、私としては長い療養生活にひとつの区切りをつけ、私的な身辺報告書として皆さんに捧げたいという願いから、敢えて出版に踏み切った次第であります。あわれな歌集ではありますが、一首でもお眼にとめて頂ければ望外な仕合せです。出版に当っては荒垣外也先生の御配慮と、歌友の浅井あい、平田政道、金夏日、古川時夫、野崎一幸、友人の遠藤清治、青木哲二郎、教会の石浦教良の諸氏の御厚意と御尽力に対し心から厚く御礼申し上げます。またこれまで多くの方々から代筆、代読等の介助を賜わったことに対しても深く感謝いたします。さらにまた短歌と信仰の両面に於いて善き先輩であった今は亡き人達、秩父明水、松日崎水星、武内慎之助、臣木至の諸氏の霊にも感謝の橋りを捧げたいと存じます。
(「あとがき」より)

 


目次

  • 昭和四十年
  • 昭和四十一年
  • 昭和四十二年
  • 昭和四十三年
  • 昭和四十四年
  • 昭和四十五年
  • 昭和四十六年
  • 昭和四十七年
  • 昭和四十八年
  • 昭和四十九年
  • 昭和五十年
  • 昭和五十一年

 

解説 新垣外也
あとがき

 

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