蟬声(せんせい) 河野裕子歌集

 2011年6月、青磁社から刊行された河野裕子(1946~2010)の最終歌集。塔21世紀叢書第190篇。

 

 河野裕子の最終歌集がいよいよ出ることになった。遺歌集ということになるが、こ以降の歌集はもう決して出ることはないのだということに、あらためて無念の思いが強い。
 河野裕子は、二〇一〇年八月十二日の夜に亡くなった。亡くなる当日まで歌を作りつづけた。一首でも書き残せるうちは残したいという強い思いに支えられての作歌だっただろう。四〇〇字詰めA4の原稿用紙をいつも使っていたが、それに直接書けなくなると、入院中は手帳に書き残していた。さらに病状が進み、鉛筆を持つ力がなくなると、彼女の口から出る言葉を、身近にいるものが書きとめるという形で数十首の歌が残された。
 それは切羽詰まった必死さというようなものではなく、もう少しゆったりと言葉が紡ぎだされているという感じであった。何か話していると思って耳を傾けると、それが歌になっており、慌てて原稿用紙を引き寄せて書き写すということが何度かあった。私も、娘の紅も、息子の淳も、それぞれが口述筆記によって歌人としての河野裕子の最後の場に立ち会うことができたことを、幸せなことだと思っている。意識して、そんな機会をそれぞれに残してくれたのかもしれない。
 河野が手帳に書き残した二〇〇首余りの歌は、主に淳が解読してくれた。入院中にベッドにあおむけのまま、あるいは消灯後に書いたらしい歌が多く、筆圧の弱さとともに、読めない字が多くあった。手帳の存在は知っていたが、河野の生前になぜいちいち尋ねながら書きうつしておかなかったのかと悔まれるのである。
 淳の筆耕を元に、紅と私の三人で一首一首手帳にあたり、解読作業を行った。読めない字がはっと読み取れる瞬間があって、三人で声をあげたものだ。
 考えてみれば、このような家族みんなで解読作業を行うことは、河野がいちばん望んでいたことなのかもしれない。彼女は、読めないような字でもとにかく書き残しておきさえすれば、家族の誰かが、きっと読みとってくれると信じていたに違いない。
 そんな信頼感こそが、最期まで作歌を続けさせる力になっていたのだろう。残念ながら、それでもどうしても読みとれない字があり、とても魅力的なフレーズがあるのにと、涙を飲んだ歌がいくつかあった。
 一首一首読み解きながら、私自身は次第に敬虔な思いになっていくのをどうしようもなかった。歌を小詩型と卑下し、自信をなくしたり、第二芸術と揶揄されたりした歴史は紛れもないが、いっぽうで、己の最後の瞬間まで、迷うことなく歌を作り続けることに賭けた一つの命があることもまた事実である。
 私は以前、死のまぎわまで歌を作り続ける、そんな存在をのみ歌人と呼びたいと発言したことがあるが、もっとも身近な河野裕子という存在が、まさにそれをやり遂げたことに、誇らしい思いとともに、敬虔な思いを抱かざるを得ないのである。河野裕子は紛れもなく歌人であった。
 今回ほど、歌の力ということを実感したことはなかった。彼女の思いは専ら歌のなかにあったという感が強い。特に最後の一週間ほどは、歌という形式を信じきって、自分の思いを歌に託そうとしていたと感じられた。
 介護の深浅は別として、日常は最後の一週間もそれまでとさほど変わらず淡々と過ぎていったような気がしているが、彼女には何か特別に言わなくとも、歌で十分に自分の思いを伝えられているという自信があったのではないだろうか。あのように最期まで力を傾けて作りつづけられた歌は、そのどれもが家族へ残しおくメッセージだったのではないかと私は思っている。
 歌集のタイトルは、淳の提案で『蝉声』とすんなり決まった。病んでふせっている河野の耳に届く八月の蝉の声は、この歌集でも繰り返し歌われているが、それはまた、初めての出産のときの歌

しんしんとひとすぢ続く蟬のこゑ産みたる後の薄明に聴こゆ『ひるがほ』

に遠く呼応しているだろうか。河野自身も、自らの耳に届く蟬声を強く意識していたに違いない。

 いまは、一人でも多くの方々に、この歌集をお読みいただき、河野裕子という歌人の最後の営みを知っていただきたいと切に願うのである。

永田和宏

(「あとがき」より)

 

目次

  • 南向きの小部屋
  • 小さな顔 
  • 神社祭礼前日
  • ゆめあさがほ
  • 誰もあなたを
  • よい天気は怖い日
  • はいと振りむく
  • 白梅
  • 大凧
  • 河口まで
  • 食べる
  • はるかに思ふ
  • 百歳の猫、ムー
  • むかごつぶつぶ
  • 歌は文語で
  • 落花
  • 隣人
  • 日本古謡さくら
  • 室生寺にて
  • いい方に考へるのよ
  • ユーコさん
  • 豆ごはん
  • トム
  • ふた匙

  • なすのこんいろ
  • バプテスト病院213号室
  • 若狭へと
  • トムは
  • ドクダミ化粧水
  • ええ咲きました
  • 澤瀉久孝教授
  • 死ぬときは
  • わがままな患者で
  • 砂丘産小粒らつきようの
  • ヒアフギ水仙 
  • あなたはよかったわね
  • タカトウダイ科の草花が
  • 紅が言ふ
  • 髪あるうちに
  • それでいいんだよ
  • 目黒のすし
  • ナスの花にも
  • 花かご
  • 重病の人なのですか
  • 短い衣装の天使
  • 山椒を
  • 貪眠
  • どのやうな崖
  • 筆記始むる
  • 三度泣きたり
  • 蝉声よ
  • これ以上
  • あんなにもおいしかった
  • つひにはあなたひとりを
  • 十日でしたか
  • 木村敏 
  • 茗荷の花も
  • 手をのべて

あとがき 永田和宏

 

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