ノノミ抄  庄司総一遺稿詩集

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 1962年3月、思潮社から発行された庄司総一(1906~1961)の遺稿詩集。

 

 サンクチュアリということばには、聖所ということのほか避難所という意味がある。あるいは免罪区。その禁猟区にいはたくさんの鴨が飛んでいたが私はそれを射とうとはしなかった。猟銃で狙ったことはしばしばだったが、ついに引金はひかなかった。獲物は豊富にあったはずなのに。
 
 私は佐藤春夫先生に言われて恥しい思いをしたことを生涯忘れないだろう。先生は私を評してきみは案外倫理的だねとか、常識家だとか言われたのだ。鴨の代りに私自身胸を射抜かれた気持だった。作家の酒蔵には甘い美酒もあるべきだろうが、同時に悪魔の酒のたくわえがなくてはならない。とはいえ、行動において、私は流行のマンボを踊ったりロックンロールを歌うことはしなかったし、バラの花びらを食いもしなかった。あくまで私は内面的な飛躍と精神の冒険を試みようとし、芸術的な欲求に対して貪欲であろうと努めた。だが精神の翼が飛躍しないうちに、肉体が地に堕ちてしまった。ガンを病もうとは思ってもみなかったことだ。

 が、奇妙なことに堕ちた肉体が少しばかりの塊の土をもち上げ、花開く球根の芽があらわれそうに思った。華々しい狩猟はもはや不可能だが、六尺の病床はもはや禁猟区ではなく、私はある自由を得た。苦しみは耐えがたく、昼も夜も痛みどうした。私は大地に爪を立てるように書いた。時にはその苦しみがやわらぐひと時もあって、私はわらべが砂上で指で絵を描くように書いた。

 海鳴りが遠くからきこえ、波は音楽のリズムのようだ。やがて波の掌が砂の文字を消すだろう。すべてはかなし。しかし、しばしの時私は充ちてありたい。私は書くことで、わが生涯をもういちど生き通しているわけだ。(飯田橋医大にて)

(「あとがき」より)

 

 彼は一昨年の九月二十日、日本医大附属第一病院で、自分の本当の病名を知らされる事なく手術を受け、十月末隊員しましたが、それから間もなく自分の本当の病名を知りました。その言葉は妻である私が告げたものでした。その頃ガンで有名な信州の病院に入院の予定だったのです。彼は恨みました、それでも後になって私にこう云ってくれました。云ってもらえてよかったと思う。ぼくは自分の病気と対決出来た。と。

 彼は昨年の九月再度入院しました。そして間もなく詩や日記を書きはじめたのです。死の準備だったのでしょうか。後に残された私にはそう思われてなりません。病院のベッドの上で痛みの薄らいだ束の間をつかまえては、クッションをヒザの上にのせて小さなノートに書いていました。

(「追記/庄司貞子」より)

 
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