1991年8月、思潮社から刊行された大木実(1913~1996)の第14詩集。第10回現代詩人賞受賞作品。
人が死んだり生きたりしてゐる
そのたびに雲の上では燈火(あかり)が點(つ)いたり消えたりしてゐる
雲はたかい處にあるので
誰もその奥を覗いて見ることはできないのだ。
人はこの世を離れこの世を捨てて
また遠い雲の上にかへってゆく。
(「雲と人」)こういう詩にひかれ、こういう詩を書く杉江重英という詩人にひかれ、先生をお訪ねしたのは私の十代の終わりのころだ。それから数年のあいだ、私が徴兵現役で軍隊へ行くまで、月にいちどかふた月にいちど、お訪ねしてお話をうかがい、ときどき詩を見ていただいた。先生は三十代のなかば、高円寺の閑静な住宅地にお住まいで、奥さまと幼い娘さんとの三人の静かなお暮らしであった。いつも家に居られたが、何によって生計を立てておられたのであろうか。そのころ詩人とか小説家というと、放埒な無頼なイメージをともないがらだが、先生は端正で清潔であった。
先生には「夢の中の街」(大正十五年)をはじめに「骨」(昭和五年)「雲と人」(七年)「新世界」(八年)の四冊の詩集がある。第一詩集「夢の中の街」は二十九歳の、最後の詩集「新世界」は三十六歳のおとしの刊行であり、四冊の詩集の教は合わせて百九十六篇である。
「夢の中の街」は青春の詩集だがものうい倦怠感が漂い、「骨」は激しい自虐と空無感を感じさせる。そして次の「雲と人」では日常の平安なおちつきと充実感を感じさせる。私がはじめて先生をお訪ねしたのはこの時期である。続いて翌年出された「新世界」では詩集のタイトルが暗示するように、日常の世界から思念の世界を志向され、詩質詩形の変貌を試み、新境地への展開を予感させながら、以後新詩集をお示しになることなく、昭和三十一年五十九歳で尼崎で亡くなられた。
先生が関西の尼崎へ転居なさり、勤め人の生活へはいられたのは昭和十一年ころである(私は軍隊へいっていた)。尼崎への転居は先生の兄上(杉江重盛氏)が大きなガラス工業会社の技師をなさっており、そのご縁によると思われる。
詩作を絶ち、先生は関西の地へ移られたのであろうか。関西へ移って詩作を絶たれたのであろうか。先生の詩作の中絶、それからの長い沈黙は、何だったのであろう。
昭和のひとけた時代、生と死と、生活のすがたと人間のさびしさを、誠実にまっすぐに愛情をこめて詩に書いた、仮に人生派ともいうべき幾人ものすぐれた詩人が、モダニズム詩とプロレタリア詩のはざまで、詩史の谷間に残されている。杉江重英もそのひとりである。
(「東京新聞」3・5・6)本書はここ四年間に書いた三十篇に、前集からこぼれた二篇を加えた私の第十四詩集です。
(「杉江重英のこと―あとがきに代えて」より)
目次
- 柴の折戸 一
- 柴の折戸 二
- 秋の日差し
- 平穏な日々
- 歯ブラシが二本
- ひとりになってから
- 母
- 夜の電話
- 夏の終り
- 帽子
- 幻想交響曲
- 白鳥の歌
- トンネル
- 荒川の鉄橋
- 荒川の夕映え
- 一家
- あにいもうと
- 冬
- はじめてのラブレター
- 秋の日
- 不意に
- 小さな女の子
- 娘
- 秘密
- 夕方の散歩
- 原っぱ
- 不安
- 非情
- 窓のあかり
- 桃の花
- 春日遅々
- こうもり傘
杉江重英のこと――あとがきに代えて