1989年4月、花神社から刊行された平井孝(1929~)の第3詩集。著者は秩父市生まれ、刊行時の職業は新潟大学法学部教授、住所は新潟市小針藤山。
一九二九年。アメリカのニューヨークはウォール街で株の大暴落がおこった。それはまたたくまに全世界を経済の大不況にまきこみ、世界大戦への不幸な道に通じることになった。ぼくはその年に生まれ、戦争の火が燃えあがり広がるなかで育った。まだ人生の深い意味をさぐろうとする自我が芽生えたとはいえない時期であった。国全体が歴史の急流のなかにあって、ぼくという木の葉も、その渦に呑みこまれ踊らされていた。戦争にたいする疑問の芽が出かかっても、歴史のなかの個人はもはやその宿命から逃れられぬものと、みずからその芽を摘みとっていたとおもう。それが、ぼくの十代の半ばまで続いた。一九四五年、十五歳の夏の敗戦。祖国滅亡の危機感は切実なものであったが、同時に、不思議な解放感。ぼくの戦後は、ある意味では、この自由の予感から始まったといえる。いま、ここで、ぼくの小個人史を述べるつもりはない。その後、大学教師となって、すでに三十年が過ぎた。かつての軍国少年は、いま還暦の手前にある。だれかおもわざる。この年月の経過を。
だがまぎれもなく、戦火を生きのびて、いま、ながい平和の大地に立っている。ぼくが詩にこめているものは、多分、生きてあることへの賛歌である。人間の原点への回帰と祈りである。
第一詩集『秩父』も第二詩集『鳥の言い分』も、そしてこのたびの『五合目過ぎて』も、すべて、そのようなものとして育ってきた、ぼくの樹木にほかならない。とりわけ、第三詩集には、近づいてくる老いに立ち向かうための、ぼくなりの覚悟がこめられている。だれも替ってくれない世界であるなら、逃げ隠れしてもむだだ。とおもいながら、死の入り口に立つ老いの扉をどのように開くべきなのか。そんな惑いの渦に巻かれはじめた現在の心境を表現してみた。青年の憧れはいつもぼくを勇気づける。家族へのときどきの思いも、生への強い執着にほかならない。詩は、死をつきぬける志についてうたうものだ。生は死の腸画、死は生の陰画。この意味で、いかに生きるかが、生涯のテーマである。
最後に、このたび伊藤海彦先生の跋文を載せることができた。これは、まったく先生のご理解とご厚情によるもので、あらためて謝意を表する次第である。
(「あとがき」より)
目次
- 映画館
- 春のタべ
- 桜の宵に
- 春の嵐
- 希望
- 赤電話
- 彼岸の入りに
- わたしの海
- 信号
- 少しでもいいの
- 深い夜の雨に
- 水玉のねがい
- ある山の湯の会話
- 長い塀のある家
- サツキの花が咲く
- 林を通る
- 罪はわが前に
- 幸福の予感
- ダニエル・ダリュウのために
- 古書店にて
- 母親の悩み
- 大根おろし
- ロマンス
- ジューンブライドの月 ある日 ある午後
- 夜の歌
- 落ち葉掃きによせて
- ヴァレンタイン・デープ
- 嫁ぐ日までは
- フランス・ベッド
- 水だけ飲んでいた
- ある青春哲学
- 撤退するK氏ヘ
- 老人性恐怖症
- 残された季節
- もはやデノミは目でない
- 五十歳のエチュード
跋 伊藤海彦
あとがき