松倉米吉歌集

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 1923年3月、古今書院から刊行された松倉米吉(1895~1919)の遺稿歌集。

 

 松倉君の歌集の序文を書かねばならぬと思ひながらつひ筆をとらずにゐるうら、自分は、突然父の死に遭うて、家郷に歸つて來た。
 昨日初七日の法要をいとなみ、今日は家の土の茶畑で、母や叔母や妹たちと茶を摘んだ。自分の長女も、珍らしがつて摘んでゐる。さうして、しきりにみんなに話しかけてゐる。茶はもう十日餘りも時過ぎて、葉裏が大きくのびてしまつた。それでも全く摘まずにおくのも惜しいといふので摘みはじめたのである。弟は庭で薪を割つてゐる。弟はこのあひだから、ひまがある薪を割つてゐる。
 五月の空は碧く晴れて、鮮な日光は、幾年ぶりかでこゝに相集つて居るわが肉親を照らしてゐる。家をめぐる樹々の若葉、見わた村の山々の新緑は、一ぱいに光を湛へて柔かに深く輝いてゐる。が、しかし、今一二日すれば、自分自分の長女もこゝを去つて行く。弟る軍隊に歸つて行く。叔母もその家に歸つて行かねばならない。あとに殘つて家を守るのは、母と妹と二人きりになる。自分の眼にはおのづから涙のたまるを覺える。この時、自分はまた松倉君のことを憶ひ出さずには居られなかつた。

 松倉君は五歲の時その父に死なれた。それと同時に松倉君の家は破産した。松倉君は漸く尋常小學を卒へるさすぐに東京へ出た。彼の母はその數年前に、彼を親戚の家に預けておいて出京してゐたのである。出京後の彼は鍍金工場に通つたり、金屬挽物職をしたり、働きどほしに働かねばならなかつた。書を讀むことの好きな彼は、わづかに求め得た書を、夜爲事を終へて歸つて來てから一所懸命に讀んだ。さうして彼は遂に歌の道に這入つて行つた。
 松倉君が初めて自分の處へ來たのは、自分の師伊藤左千夫先生が、亡くなつて、數月後の、大正二年十月で、彼が十九歲の秋であつた。彼はその以前、士岐哀果君たちの主張に由つて、生活と藝術との交渉といふことを考へるやうになり、本氣に歌を作る氣になつたらしい。
 松倉君の歌は、かなり長いあひだ、不透明な点や、蕪雑なところがあつたが、軽く浮ついたところや、いいかげんにすまして居るやのこころはなかつた。
 彼は常にみづからの實生活を核心にして、着實に専念に表現した。みづからの感じを適切に表現し切れないもどかしさを感じながら、忍耐し勉強して行つた。彼はこれを表現する言葉の習練にも、非常に努力したが、言葉で感情を弄んだり飾つたりするやうなときはなかつた。彼はみづからの心を、その苦しい境遇のために、若しくは、賑やかな外界の影響に、わづらはされることなく、あくまでも謙抑な心を持ち續けつゝ、ひたすらに唯一つの道を見つめて歩いて行つた。真直な一すぢの道を押し進んで行くのは苦しい。誰でもが進み得るやさしいことではない。彼の誠實と忍耐、熱心とが、この道を向上せしめたのである。彼は本當に歌にいのちを打ち込んでみた。生來不遇の境涯に在りながら、不治の病を身に抱きながら、反抗や皮肉の殆どないのも、彼の性格と信念とをうかがふに足りる思ふ。彼の歌の一首々々はその生活の奥所から痛々しく沁み出て來る人間性の結晶である。彼の誠實、彼の作歌は、年を追ふに從つて、だんだんに光を現はして來てゐる。ますます深く根抵の方へと這入つてゐる。しかるに彼はわづかに二十五歲を以て死んでしまつた。

 松倉君の病は彼が二十一二の時分から、彼の肉體に喰ひ入つてゐた。喀血したことも一二度ではなからしい。けれども、彼は病軀を押して爲事をせねばならなかつた。静養するなどといふことは境遇が許さなかつた。彼の歌は、いたましかつた彼の境涯が、病んでゐた彼の肉體が、短かかつた彼の生命が、直接に衝迫的に發した吐息であり呼びである。彼の生涯に、歌といふ一すぢの路があつたといふことは、彼のせめてもの幸福でなければならなかつた。いのちの光をそこに認めつつ息づくここの出來た歌を彼は持つてゐた。
 かうした深い人間性に根ざしてゐる松倉君の歌が、行路社同人の熱心な盡力で、歌集となつて、世に公にされるさいふことを、自分は心から喜ばずには居られない。
 松倉君は自分の安逸な感情の滿足を外に求めようとはしなかつた。たゞ彼が死ぬ半年ばかり前に、戀人のことで苦しんだ時、田舎へ行きたい、田舍に何か出來る爲事がないかしらといつて、自分に訴へに來たことがあつた。それから最後の病床にありながら田舎へ轉地したいといふことをいくどもいつた。二度とも彼ののぞみを滿たすことは出来なかつた。松倉君が今まで生きてゐてくれたら、自分の郷家に來てゐて貰ふと、お互に大へん都合がよいのにと思はるるのである。
 茶畑のすみに、亡父がこの春接木した柿の若芽を見つけて、そのまはりの草を拔いてゐると、庭の牛がつづけざまに鳴く。見ると弟が仔牛をひいて山の方へ出かけたのである。仔牛は弟の前にたつてゐせいよく走つて行く。親牛は自分の側を離れていつた仔牛を呼んでしきりに鳴いてあるのである。
(「序/古泉千樫」より)

 

 

目次

大正八年

  • 簷雨(八首)
  • 病みて(三十六首)
  • 冬ぐもり(二首)
  • 油蝉(十八首)
  • 親なし児(二首)
  • 朝床(八首)
  • わかれ(七首)
  • 雨ぐもり(一首)
  • ひとり(十七首)
  • 霙(八首)
  • 冬の街(八首)
  • 一月(五首)
  • 郊外(二首)
  • 薬売(一首)

大正七年

  • 冬の日(十二首)
  • 静けさ(二首)
  • 春の街(十七首)
  • 母は死にたまふ(十七首)
  • 悔い(一首)
  • 秋の夜(三首)

大正六年

  • 秋たつ頃(四首)
  • 夕空(一首)
  • 場末(五首)
  • まひる(十首)
  • 夜仕事(五首)
  • 夕暮(十七首)
  • 朝(七首)
  • ある夜(一首)
  • 冬の街(九首)
  • 父(二首)
  • 凍雪(四首)
  • 兄の結婚を祝す(一首)
  • 山茶花(五首)
  • 一郎を鉱山へ送る(三首)

大正五年

  • 秋晴(五首)
  • 砂塵(十首)
  • 赤(一首)
  • 夕飯(三首)
  • 夏のころ(二首)
  • 病中吟(五首)
  • 雑詠(九首)
  • 飴売(二首)
  • 夜の雨(六首)
  • 長家から 其一 (二首)
  • 朝飯(四首)
  • 長家から 其二 (一首)
  • 日だまり(六首)
  • 長家から 其三 (二首)

大正四年

  • 嵐のあと(六首)
  • 米吉の書簡(一篇)
  • 夜(四首)
  • 舞子(四首)
  • 朝顔(六首)
  • 米吉の書簡(一篇)
  • 青芝(八首)
  • 貧窮余録(六首)
  • 米吉の書簡(一篇)

大正三年

  • 乏しき仕事(七首)
  • 林登美子氏へ(四首)
  • 真鍮粉(六首)
  • 深案(二首)
  • 槌の柄(七首)
  • 機械の音(五首)
  • 一年(五首)
  • 歌曽の歌(十首)
  • 米吉の書簡(一篇)
  • 追補
  • 病む母
  • 砂塵

 

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