1986年4月、富岡書房から刊行された仁平勝(1949~)の評論集。装画は安田悟、装幀は内山由美子。付録栞は加藤郁乎「この俳句愛」、北川透「俳句的喩について ある感想」。著者は武蔵野市吉祥寺生まれ。刊行時の住所は立川市若葉町。
これは俳句について論じた私の第一評論集である。いつごろから興味をもって俳句を読むようになったのかは正確な記憶がないが、あるとき自分でも俳句をつくってみたいと思い、みようみまねで「花盗人」という句集を書き上げたのが一九八〇年の秋であったことは、その私家版句集の奥付から分かる。これがきっかけで、俳句に関してはじめて評論というものを書くようになった。
ここに収めた文章は、巻頭にある書き下ろしの一篇をのぞくと、すべて一九八二年から八四年にかけて執筆したものである。今回は、原則として短い文章や時評的な性格のものをはぶき、また比較的長篇の「高柳重信論」を、べつの機会にあらためてまとめ直すつもりで除外することにした。
冨岡書房から話があった当初は、できれば文章にもう一度手を入れたいと考えたのだが、ほとんどなにもできないままアッというまに一年が過ぎて、けっきょくそれは断念せざるをえないことになった。「加藤郁乎論序説」については、他の文章との長さのつりあいも考えて若干の加筆修正をほどこしたが、あとはいくらか字句を訂正した以外すべて初出のままである。過去に書いた文章を読みかえしていくときの、なんともやりきれない気持はことさらいうまでもないが、しかしこれほど個的な貧弱さ(あるいは危うさ)をさらけ出した俳論もそうはあるまいという、妙な自信がこの一冊の支えになっている。
おそらく私の考えは、そのときどきで微妙に違っているはずで、それはたんに私の俳句観の時間的な変化というより、もともと俳句にたいする私自身の感情の複雑さに対応していると思われる。そしてとりもなおさず、その感情の複雑さをどこまで普遍的な言葉によって対象化しうるかが、私にとって俳句批評というものの、つねに根本的なモチーフであった。「序に代えて」と題した巻頭の文章は、いわばこれまでの試行錯誤にいちおうの決着をつけようとした書き下ろしであるが、結果的にはこれが冨岡書房主にさらに半年待ちぼうけをくわせる原因になってしまった。そしてその文章がとうとう行きづまったところで、本書は完成したというのが実感である。
この刊行にあたって、私が長く私淑してきた加藤郁乎氏と北川透氏から文章を頂けたことは、まさに望外の喜びであった。この場をかりて、両氏に心から感謝の意を表したい。また、この評論集をまとめることを強く勧めて下さった坪内稔典氏と、最後まで根気よく刊行に尽力して下さった冨岡和秀氏にたいし、あらためてお礼を申し述べたいと思う。
(「あとがき」より)
目次
虚構(フィクション)としての定型――序に代えて
Ⅰ
- <発句>の変貌――切字論・序説
- 俳句定型論ノート(一)
- 俳句定型論ノート(二)
- 読者の<場>をめぐって
Ⅱ
- 山本健吉論――古典主義者の<悪意>
- 俳句ヌーベルバーグの旗手――西東三鬼論
- 生活過程のほうへ――井上白文地
- 現代俳句の来し方――もしくは近代俳句の終焉
Ⅲ
あとがき
初出一覧