1969年11月、私家版として刊行された塔和子(1929~2013)の第2詩集。題字は宇留野清華、装画は二葉由美子。
私にとって、この現実はすべて詩を産むための母体でした。苦しいときは苦しみを養分にして悲しいときは悲しみを養分にして詩をみどもり、まるで月満ちて産まれ出る子供のように、ひとつずつひとつずつ作品が生まれました。その意味で詩は正に分身です。
けれども書くことは常にきびしく、自分を高めることであると同時に自分をあばくことであり、美も醜もふくめて生存をあばくことです。書くとき私は、いつも高められるものであると同時にあばかれる存在でした。私という一個の存在は、ペンというメスであばかれ、さらけ出すことによってしかその存在を明確に示すことができないのです。そして、その示されたものにおいてのみ、詩人としての生命があり、示さなければすでに私は死体にひとしいものです。
詩を書くときの心理は、ぐれんの炎の中でもだえ苦しむ愛娘を見て、一枚の絵の完成のために非情に絵筆を運ぶあの地獄変(芥川竜之介、作)の中の絵師の心に似ています。絵師の見ているのは焼かれている娘ですが、私の見ているものは、知恵と本能と神への目覚めの中で苦悩する自分自身の心です。どんなにそれが非情であつても見つめることによってしか詩は生まれない。また一面、私の詩は重箱の中をほじくるようだともいわれたりしますが、心という不思議な重箱は無限に深く無限に広く、いくらほじくつてみてもなお思いがけない感情がつまっていて豊かな色彩にみちあふれた魅力ある存在です。そして私はあばかれ傷付きながらもその魅力からはなれることができず書きつづけることでしよう。
いまだ力およばず果たすことができませんが、いい詩を書くことだけが御指導をいただきました方に対して、また、前著「はだか木」を出版して下さった方に対して、また、以来私の作品に好意を寄せ愛読して下さった方々に対して、負うべき作者の責任だと考えます。
この詩集に収めた作品は「はだか木」以後、昭和三十七年から四十三年までの作品で、その間に詩誌「無限」並びに、かつて、ラジオNHK第二で放送さ又ズでいずれも村野四郎先生の選を受けました作品と、それに岡山の永瀬清子先生主宰の「黄薔薇」、愛媛の三木昇氏の発行していられる「樫」などに発表した作品の中から七十一篇を選んだもので、年代順に並べることをさけ、一冊の詩集としての構成を考えて配列いたしました。詩集のために題字を下さった宇留野清華先生、わざわざ装画を描いて下さった二葉由美子先生、発行をかげながら支えて下さった海老沼健次先生、印刷所との交渉をして下さった奴賀正様、そして編集を引受けて下さった政石蒙様に心から感謝を申し上げて後記といたします。
(「後記」より)
目次
- 分身
- うずまき
- 母
- 不幸のぬくみ
- 詩を産むもの
- 川
- 目覚めたるもの
- 自由の橋
- 出会いについて
- 名前
- 結婚
- きざはし
- 言葉
- ペン
- 乾き
- 道
- 熱
- 言葉の糸
- 人体
- 夏
- 死
- それのこと
- 法則
- 森
- 裸
- 病気
- 海の表情
- 手ざわり
- 孤立
- 一匹の猫
- 破る
- 結び目
- 魔物
- 孤影
- 木
- 太陽
- 春景
- 惧れ
- いち日
- 歳月
- 不遜
- 船
- 水溜り
- 秋
- 生きたものから
- 歩く
- さびしさ
- 言葉の間
- 午後の風景
- 私ではない
- 姿勢
- 底にある天国
- とき
- 穴
- メタフィジックな花
- 視点
- 泉
- 孤独なる
- 出発
- 土
- 切る
- 美の条件
- 顔
- 履歴書
- 花と人物
- 所在
- 発掘
- 私は川
- 知られざる極北
- 前方
- 恥の祭日