歌え、わが明星の詩 前田愛子

 1988年9月、かもがわ出版から刊行された前田愛子(1930~)による真下飛泉(1878~1926)の評伝。

 

 観光客で賑わう京都知恩院の境内に、「ここはお国を何百里」と、力強い文字で刻んだ石碑が建っている。
 良正院の門前にあるこの碑は、『戦友』の作詞者である、真下飛泉(ましもひせん)の業績を偲んで建立されたものであるが、昨今は足を留める人さえない。けれども哀切をおびたこの歌は、明治から大正、昭和へと、戦争に明け暮れた世代に歌いつがれてきたし、現在も歌われているのではないだろうか。
 いつかみた「泥の河」という映画の中で、父を失った少年が、夕食に招かれた友人の父親の前で、この歌を歌う場面は感動的で今も忘れられない。
 軍律のもとでは、負傷者の介護は戦闘力の低下をきたすので、厳しく禁止されていたが、飛泉は、軍律きびしい中なれど是が見捨てて置かれうか/「しっかりせよ」と抱起し/仮繃帯も弾丸の中/と、戦場における生命の尊厳を謳いあげ、反骨精神を貫いた。
 作詞の背景となった日露戦争は、旅順攻撃開始から開城まで、約五カ月に及ぶ戦闘中、日本軍の死傷者は六万人にものぼった。その結果、巷には腕や足を失くした痛々しい傷痍軍人の姿が溢れ、還ってきた遺骨に縋る女たちの光景が数多く見られるようになった。そうした戦争の悲惨さを眼の当たりにした明星派の歌人、飛泉は、自己の反戦思想を一編の叙事詩に託したのではなかろうか。
 明治三十八年九月十二日、『戦友』が楽譜つきで、京都市の五車楼書店から発売されると、たちまち初版は売切れ、百版を重ねる大ヒットとなった。このとき飛泉は二十六歳。京都師範附属小学校の教師であった。『戦友』はのちに厭戦の歌、反戦的であるとの理由で軍隊の中で歌うことを禁止された部隊もあった。
 これは貧しい農家の次男に生まれ、苦学して京都師範を出、教職に携わりながら、文学活動を通じて与謝野鉄幹にも師事し、明星派の歌人として、時代に抗して独自の道を拓いていった、真下飛泉の若き日を描いたものである。
 この作品を書くにあたって、取材にこころよくご協力いただいた飛泉の義嗣子・真下和夫氏、飛泉研究家の宮本正章氏、大江町史編さん委員会の城下萬吉氏、それに終始お力添えを戴いた京都民報社社長の松村茂氏、かもがわ出版の湯浅俊彦氏、さし絵の鴇田幹氏に、この場をお借りして感謝の意を表したい。
(「あとがき」より)

 


目次

  • 第一章 めざめ
  • 第二章 友情
  • 第三章 『よしあし草』の人々
  • 第四章 帰郷
  • 第五章 学びの絆
  • 第六章 『明星』創刊
  • 第七章 波瀾
  • 第八章 それぞれの恋
  • 第九章 軍歌のひびき
  • 第十章 戦友

あとがき

 

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