
1986年11月、雁書館から刊行された永田和宏(1947~)の第4歌集。装幀は高麗隆彦。
『メビウスの地平』『黄金分割』『無限軌道』につづく、第四歌集である。昭和五十六年から五十九年にいたる四年間の作品、二百五十余首より成る。このあと、私は二年間アメリカで研究生活を送ることになるのだが、その直前で切った。『つゆじも』が当然頭の隅にはあった。
数首を削除し、数首を少し直したほかは、この期間に作った全ての作品を、初出とほぼ同じ形で納めたことになる。初出一覧を眺めてみると、この期間も、ずいぶんヴァラエティに富んだ雑誌に発表の機会を得た。各誌の編集の方々の好意を改めてありがたく思っている。
私のこれまでの歌集につきあってきていただいた読者は、本集を手にとって、おや? と思われたかもしれない。歌集名のイメージが、これまでとずいぶん違っている。おまけに、過去、歌集に関しては一度も書いたことのない、「あとがき」までついている。
歌集のタイトルには、いつも苦しむ。今回も例に漏れず、初校を終え、宣伝が出るという段になってもなお決まらず、冨士田元彦をやきもきさせたようだ。
タイトルでいえば、第一歌集『メビウスの地平』は気に入っている。第二歌集『黄金分割』のとき、本当は《非ユークリッドの昼下り》というのを考えていた。第三歌集『無限軌道』は、銀河鉄道のイメージといえば、当たらずとも遠からずである。歌集が出た直後だったと思うが、トラックで運搬中のブルドーザのキャタピラがはずれ、横にいた乗用車の上に落ちて怪我人が出たというニュースを聞いた。うかつなことに、そのときはじめてキャタピラを無限軌道ということを知って、ひどくがっかりしたことだった。
今回最後まで迷ったのは<π>である。パイと読む。円周率であり、3.14159……とつづく無限小数であることはだれもが知っている。この数値を計算することに一生を費し、何百桁だったかまで求めたが、実際にはそのはるか以前に計算を誤っていた数学者の話など、無限であるゆえのロマンにもこと欠かない。
ごく最近岡井隆が『αの星』を出したこと、<π>だけではちょっと無理で、「π(パイ)」とルビを振らねばならないだろうこと、そして、既刊三歌集につづいてまたしても読者の敬遠しかねない、なにやら難解そうな名であること、などが踏みとどまらせた。
それなら、これまでと全くちがったイメージにしてみるのもおもしろいかもしれない。いずれにせよ、イメージが固定してしまうのは、ありがたいことではない。そうして決まったのが『やぐるま』である。
詩集の題名は、おおむね凝っているという気がする。歌集のタイトルは、思い入れの強い凝ったものと、逆に、ことさらぶっきらぼうな平凡なものとの二方向を感じる。
形態学(!)の観点から見ると、漢字ばかりのもの、なかでも漢字二字がもっとも多いだろう。次に多いのが「……の~」形式のものである。どちらも安定感のあるところが好まれるのだろうか。私の簡単な統計では、現在に近くなるほど、「……の~」形式が目に見えて多くなる。ひらがなだけというのは、意外に少なく、漢字二字の十分の一程度であった。
長さという観点からみると、漢字だけの場合、二字が圧倒的に多いことは先に述べたが、三字がこれにつづき、四字、一字、五字の順になる。面白いことに、漢字だけで五字以上というのは(「……歌集」は除いて)見つからなかった。このあたりが限度というべきか。ひらがなになると、もう少し長い側にシフトするのは、実感的にもうなづける。ひらがな一字だけという歌集は、あるのだろうか。可能性があるとしたら「ん」くらいのものだろう。
トータルの長さも、時代により流行がある、あるいは、もう少し積極的に時代を反映しているようにも思われる。時代の<熱さと、タイトルの長さにはどこか相関がないだろうか。「土地よ、痛みを負え」「行け帰ることなく」「直立せよ一行の詩」などは、文字通り熱いタイトルだろうし、「森のやうに獣のやうに」「バリケード・一九六六年二月」「やさしき志士達の世界へ」など、いずれもいかにも第一歌集らしいタイトルだ。そして、これらは、なぜかいま(一九八六年現在)の時代的ではない。美と思想・抒情の論理さまよえる歌集・慰藉論・詩の荒野より
あたらしき長城・奔馬・魯迅伝・散華・飛花抄みずかありなむ
メビウスの地平・天唇・鳥記・エチカ・群黎・コクトーの声いずれも三枝昂之『暦学』中の歌(?)である。出来映えを云々する作品ではもとよりなかろう。作者がタイトルにこめた思い入れを、読者が、どのような自己の思い入れによって切り取ってくるか、そのような文脈の中で読まれるものであろう。
『天唇』はいいタイトルだ。いかにも村木道彦らしく、透明で、淡くそしてどこかかなしい。いいタイトルをつけたい、とはだれもが願うことだろう。凝ったり凝らなかったり。凝りすぎて失敗したり、ぶっきらぼうで平凡になったり。それが名である以上、時間とともに、いずれしっくり感じられてくるのは、いつの場合も同じだ。しかし、歌集に名をつける際の苦しみを文章にしたものを、私はいまだかつて読んだことがない。
安永蕗子は、処女歌集以来、一貫して漢字二字を貫いており、その意志力というか計画性も、また見事だという気がする。性格的に整合性を好むということなのだろうか、漢字四字を通そうかとも、考えた。いかにも固いとも思った。このあたりでイメージチェンジという思いが強かった。
私がこれまで関与した歌集名の中では、河野裕子の『はやりを』が、一番気に入っている。強くて、しかも固くない。二匹目のどじょうというわけではないが、ひらがなに固執した。
<やぐるま>という花は好きである。少し暗い風の中に吹かれているのがいい。矢羽根の風ぐるまが、はるか高いところにからからとまわっているのもいい。これを吹く風も、暗い気がする。<やぐるま>という語感はやさしい。だが、やさしい中に、どこか狂気の影をうっすらと漂わせていると感じるのは、私だけなのだろうか。そう悪くはないような気もする。
『やぐるま』に決まって、一番頭を抱え込んだのは、装幀の高麗隆彦のようだ。「あいつなら、こんな線でくるだろうという、予測があるじゃない」とは、彼の弁。そこが当方の思うツボ、ということでもある。どんな装幀になるのか、楽しみにしている。そういえば、彼の手になる四冊目の本ということになる。
冨士田元彦、小紋潤両氏とのつながりも、ずいぶん長くなった。著者と編集者という以上に、友人としてのつきあいであった。そのような友情の中から本ができていくことの幸せを思う。女房は、まだ『π』に固執している。πか。それもよかったかもしれない。
(「あとがき」より)
目次
- 魔法陣――あるいは遺伝学について
- 笑止の螢
- 迷宮
- 韻律学――あるいは恋唄
- 荒神橋
- 露点つゆけし
- 許容量
- 針穴写真機
- 身体論――午后のヴァリエーション
- 不思議
- 定家
- 直叙法
- 夕暮の橋
- 成層圏のみずぐるま
- 野の水
- 駱駝宇宙
- 紙芝居
- 父
- 無為無策
- 湖岸の桜
- 煤硝子
- 天秤
- 敵
- 西都原三層の虹
あとがき