1962年3月、百華苑から刊行された池井保(1928~)の第1詩集。刊行時著者の職業は小学校教師、住所は京都府竹野郡網野町。
著者は今、生徒数二百余、国鉄のジーゼル化で二両編成の準急が通るようになった丹後木津の小学校で、三十二人の二年生の子供達を教えている。
海に近いが海の恩恵はない。沖積層のなだらかな畑と、高くまで耕やされた山には、夏のはじめが来るとくれないをさしてつゆやかな桃の実が熟する。著者は子供達の日記や作文を集めて「もものみ」という名前をつけている。生徒が一年生であった昨秋の「もものみ」の中に「運動会の案内状を書く」というのがあって、その中に、おかあちゃん、あした8じから、おかあちゃん、ゆうぎをみにくるなあえ、ほんとにみにくる。はたやすんでくるなあえ、ほんとにくるだなあえ、ほんとにくるなあえ、しとりくる。ほんとにこいよ、ほんとだど。
というのがあった。はたやすんで、というのは「機休んで」という意である。この――なあえ、――なあえ、――ほんとにこいよ、ほんとだど。の畳みかけに、切なく迫るものと共に、まことに健康なものを覚えた。後日聞くところによるとこの両親は、当日早朝から来て揃って応援していたという事である。
この辺りの縮緬織りは、企業ではない生業(なりわい)である。運動会一日の休業は、デパートをひやかしにゆくのを止めて運動会を見にゆくのとは違うのである。
なん個かの卵を買ってそれぞれの掌に抱かせ、鉛筆の持ち方を教えたと、はにかみ乍ら話していた著者は、その頃子供達一人々々の生活を丹念に書きつけた大学ノートが三冊目になっていた。私は著者がどういう仕事をしているかという事を知った。
著者が生れ、そして骨を埋めるであろう処は、更に又ここに収められた詩篇の中に、繰返し語られ、又生涯詩いつづけられるであろう詩人の身負うもの、云うなれば近代を否定する詩心の発生した処は、経ヶ岬を距ること二里、日本海の渺々とした海浜の村である。汽車を降りてバスの通ずる六里の道は、冬は雪雲なずさう海の彼方、猛り来る白浪が岩に砕け、春は磯馴れの松蔭に、動くともなく果遠く過ぎる船影を見る。それはリアス式海岸の景観に堪える処である。
十四の歳に家郷を出て、二十六歳まで、青春の十年は京都近郊を中心とした都会生活の中にあった。戦いとその終決の渾沌の中で放浪したかに見えた魂は、今に思えばそれは戦いや社会の無秩序にあったのではない。「郷愁」の中で――。ぼくのひふが黄色だ――と叫んだ時、むしろその無秩序と共にこの不遜不定の近代が、歴史が、崩壊し去る事を念じる若者であった。その倫理は、鯖の一本釣りに反収二石、半農半漁のふるさとの生活の中にあったのである。
しかし何者も失いはしなかった。健康の何なるかを知った魂は、やがて海山のあいだへかえった。それは単なる消極であったのではない。ここを起点に筆者の教師としての性格は位置づけられて行ったのである。「節供」や「長い月日」はこの消息の間に生れた。私はこの二篇を著者の骨頂とする。そして彼は、今後も好むと好まざるとに拘らず、この道をゆくに違いないし、更にこの二篇に見る感傷は鍛錬し尽されるであろう。夜をこめて過ぎる霜月しぐれ、思えば心傷むものがある。而して又同時に、悲愁の心を慰め、ひそかに勇気が与えられるのを覚えるものである。
私が著者について語り得ることは多い。しかし、ハマボウフウやコウボウムギ、やがて冬に入ろうとする砂浜の千草枯れて、ちちのみのちちの御墳は果しなき海につながる。この数十の詩篇の生れる間に過ぎまししみ生命、一本をとりて先ずは手向けるであろう人影を思い、御耳の遠かりませば声高み、読み聞かす令妹の前の御母者、いずれ真幸くと思うばかりである。
(「序/足立一夫」より)
目次
序
- 三月の暮れ
- 金魚のうた
- ゆきの夜の景
- しょうがつよ
- オラの市(まち)から
- 別れ
- 鼓膜破裂
- 夏を迎えて
- 京の除夜
- 夜
- 修学旅行団
- 手紙
- 節供
- 子どもたち
- 航跡
- 長い月日
- だれだろう
- 秋
- 村
- 途方もない旅
- 岬
- 山
- 蝶
- 愛ということ
- みつめる朝
- 郷愁
- チャンス
あとがき