1974年7月、地球社から刊行された深澤忠孝(1934~)の第3詩集。題字は美山照陽氏、扉絵は河内文夫。著者は福島県生まれ、刊行時の住所は東京都国分寺市。
『熔岩台地』から六年ぶり、その間の作品から二三編を選んで、本詩集を編んだ。私の母恋いと母の否定、女性(にょしょう)にかかわる作品を中心としたという以外、大げさにいうようなことは何もない。出来の悪い子を旅に出す不安な親心みたいな思いばかりがあって、辛い。
私の母は何人もの子を生んだが、ある病いで左乳房を手術した。その犠牲になったのは、末っ子である私ひとりだけらしいが、母の胸のあの悲しい不均衡、母の記憶はそこにはじまり、そこに尽きる。そして早く亡くなり、決して幸せに生きた母子ではなかった。
しかし、やはり私は、この詩集を母に捧げるしかない。さらにあるなら、父であり、親替りに私を見守ってくれた長兄、正二三夫婦である。その兄も、すでに故人となってしまった。
私の郷里は福島県のほぼ中央、奥羽山脈の山裾である。母は、ほぼ真東の阿武隈山地の麓の、傾いた造り酒屋の娘であった。何の故あってか、父に嫁いだ。母の里へ行くときには必ず阿武隈川を渡った。その、北へ流れる大川の印象が強烈だった。あれほどの川で、水源から河口までほとんど一直線に北へ流れる川はない。例えば信濃川は、上流の梓川や高瀬川など、しばらく南へ流れてから旋回する。母が死んでから、母はその川沿いに北へ行ったのだという幻想が、私をとらえ続けた。やがて文学なぞに志して、ことさら古代文学にかかわったりして、いつか、「安達が原」の鬼女が母と重なりあっていた。母は、何かの怨念に燃えて、あの岩屋で生きているのであった。「安達が原」三篇は、連作を意識して書いた。
「安積娘子」は、私が捜しつづけるもうひとりの母のようなものである。古代、当地方に住んでいた優しく美しい女たちのはずである。「安積の神うた」は、「日本文芸論攷」Ⅲに発表した、大胆な仮説を含んだ論文であるが、論証的部分を極力削り、約二分の一につづめ、散文詩風に書き直そうとしたが、散文詩は果せなかった。
(「あとがき」より)
目次
・卵のふる里
- 洞爺の鴉
- 夏の終りの犬吠で
- 卵のふる里
- 仮装舞踏会 河内文夫に
- 埋葬 河内文夫の絵に
- 昨日のたわごと
- ふる里
- 月蝕
・妣の國
- 乳削ぎ 安達が原(1)
- 葦の船 安達が原(2)
- 安達が原 安達が原(3)
- 蟻地獄
- 常世
- 海峡
- 逝く母
- 母
- 東山
- 古代鏡幻想
・花びらの船
- 向日葵
- わたしの少女
- 花びらの船
- あぶら地獄
- 虹
・エッセイ
- 安積の神うた
あとがき