流離 中村佐喜子

 1958年2月、新潮社から刊行された中村佐喜子(1910~1999)の長編小説。装幀は三岸節子。著者は翻訳者。

 

 私は戦争末期から戦後四五年までのあいだ、心身ともに疲れて廃人のように暮した。暗い心でやゝもすると、戦争で死んだ、かつて親しくした青年たちの上に想いが沈みがちであった。とくに、あの戦争を批判的にながめて内心反対し、忌避し、軍部へはげしい抵抗を感じながらどうにもならず、自分の死を肯定する方へ、自身をねじ伏せていかねばならなかった青年たちの面影が、私から離れなかった。私の従弟や義弟がそうであったし、戦死した幼な友だちの、応召前の絶望的な気持も見せられていた。
 自分の気力がようやく徐々にもどってくると私は、あの悲劇の時代にゆがめられた人間の心理や絶望を描いて、せめて彼らの霊に捧げるレクィエムにしたいとぼんやり考えるようになった。同時に、そういうものを書いて、久しく止したまの自分の創作へ帰るようになりたいとも願った。けれども私には欲張りすぎたテーマのようで、いろいろ構想してみるがなかなか手がつかず、いくらかの収入の途になる翻訳の方がつい先になっていた。
 そのうち私たちの仲間で雑誌を出す話になったので、やっとこの『流離』(『地は揺らぐ』改題)を書きはじめ、再刊『渋谷文学』の創刊号(昭和三十一年七月)から一年間、六回に分けて載せた。
 戦争の犠牲になった青年を描くと言っても、遠い前線で戦って倒れた人々の軍隊生活や心理は私に描けない。それで私は自分の家庭を借り、戦争には行かなかったが、軍需会社の激務のために過労で倒れた義弟の死に重点を置くようにしながら、時代を浮き上らせたいと考えた。
 小説家の長男夫婦。陸軍中尉の次男。外交官志望の学生の三男。それに退役軍人の父と、しっかり者の母。――これは戦争初期の、私の家の家族構成だった。私はこれらの人々の職業とか性向を、大ざっぱに借りた。しかし、その後八年間の戦時の推移を描く中で、私は小説の目的の上から、この一家族がつゞけていった生態とはちがうフィクションを、かなり織りまぜた。ことに各々の性格と、それのすれ合う摩擦、――愛や憎しみをいろいろの形に脚色し、誇張し、故意にゆがめもした。あるいは少し奇矯にゆがめすぎてしまったかもしれない。そのようにした上で、自分の最初の意図が果してどの程度に達せられたかと思うと、心許ないのであるけれど――。私としてはどこまでも、人々が次第に余裕を失って激越に、異常に、また虚脱状態にならずにいられなかった姿のうちに、不幸な時代を探ろうとし、そうして死者に対する生き残った者の哀悼や悲嘆をこめながら書いたつもりである。
 この小説はもちろん単行本にできる目当てもなしに書きはじめたが、書き終えると新潮社から出していたゞけることになって、非常にうれしかった。元気づけられて、改めてだいぶ手を入れ原稿をお渡しした。
 おくればせながら、自作の小説本を一冊持てることになった。この喜びにつけて、事新たに長年月の空白をふり返らずにいられない。私には、小説を書こうとすると必ず落入らねばならない執拗な自己懐疑があった。それはいくらつまらぬことだと考えようとしても、どうにも克服できないものだった。言ってみれば、私は二十の頃までかなり徹底した科学少女で、その年代で当然持つべき文学的常識を全然欠いていたということに原因していた。
 その後人生的な問題にとりつかれてから、急に小説をむさぼり出し、同人雑誌などに加わって文学修業らしいこともやり、もう過去の埋めあわせをつけてすっかり文学少女へ転向したつもりになった。それでいて、いざ自分で何か書こうとすると、たとえいかに努力しても私はつまりしろうとで、本質的に決して小説は書けないだろうというためらいに苦しめられた。どうでも物を書きたい気持と逃げ腰の気持のあいだで、私は容易に居坐り場所を得ることができなかった。昭和十七年に、『雪のりんご畑』という六十枚ばかりの作品が改造社の文芸推薦になった時はかなり意気込んだけれど、この場合は次に書いたものが時局向きでないという非難を受けると、これまた気弱くひき下った。
 十数年を経て、この優柔不断や弱さがどこまで解決されたかよく分らない。でも私は結局小説を書きたいのだ。いたずらに重ねた年齢の重荷を、せめて自分を統御するために役立てねばならない。いずれ私の歩みはのろいにちがいないが、もう先が知れているのだから、過去のようなテンポではたまらないと思っている。せいぜい自分に鞭打って、悲劇が遠のいたとも思われない不安な現実生活の混沌の中に、私は文学を探ってゆきたい。
(「あとがき」より)

 

 

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