1969年5月、時間社から刊行された小山田弘子(1939~)の第1詩集。表紙・挿画は生野敬明、題名選定は北川冬彦、レイアウトは北川多紀。
詩集『花の騒ぎ』の著者小山田弘子さんは、東京都民生局を職場に、社会福祉主事の肩書をもつ公務員である。しかも彼女は、作品をとおして知るかぎり、賢明の美徳で調和を生み出す人がらであり、ときに矛盾を感じるような場合でも、全身で職場机の木目を計り、そこにあらゆる現実を自らイメージで更新、自らの現実として詩に創作せずにいられぬ、まことに心にくい公務員でもあるようだ。その事実を証明するのが詩集五十ページの
机の木目に体を横たえ
自分が成長したかどうかを確かめてみるの「職場でいやな日」の一編である。
詩集の題名でも分るように、彼女は花を愛してやまないのだが、しかも、ここでもまた、客観した現実の花を、自らのイメージをとおして自らの花にまで開花させずにはいられないという、絶対的意欲の伝わってくるところ、要するに小山田さんは、何にもまして詩を愛し、詩を生むことだけに生きがいを感じているのだと、断定しても誤まってはいないと思う。読者にそのような印象を与えることは、詩作者にとって本懐至極といわねばなるまい。
一巻にとりあげられている花は、観念化した花ではなく、作者のイメージその他の交配によって、変り咲きをみせている花であり、その数も多いのだけれど、十六ページの「野の花」が、なんとなく私の胸にきた。私が そっと手をふれると
花は開いた
野辺の なにげない花の冒頭は現実の現実である。息ずまるほどのこの緊張が全体を貫いているなら、この詩の迫力はさらに盛上りをみせただろうに<<そんなふうに開いて>>というような、いささか安易な三節の表現が、冒頭の緊張にとっては物足りなく、そういえばこの作者は<<それが>><<そんな>><<その>>というような言葉の使用が目立ち、ややもすると説明とまぎれやすいのは残念である。
二四ページの「竿売り」も好きな作品、三節の組立も丹念であり、立体的である。欲をいうなら<<それは>><<そんな時>>などは、とってしまった方がずっと絶体的になると思う。六七ページの「ホームシック」も素朴でそのものズバリだが、決してなんでもなく出来上ったものではなく、ここにくるまでの、作者の詩のレンズの差向け方が、並々ならぬ事実に驚くのである。
花の詩集とはいっても、いたずらに花をたたえたものではなく、緻密に花に配られた作者の詩心は、当然ながら平和やベトナム問題にまで、いのりと願望を忘れていないのである。
(「序に代えて/深尾須磨子」より)
目次
・花の印象
- 花の印象
- 野の花
- 花の体
- やつでの花
- 植物考――らいでんぼく
- 竿売り――生けた千草百合の窓ごしに
- 三本のバラ
- 白木蓮
- 花の記憶
- エリカの花
・四季
- 三月――泪
- 四月――小粋な朝
- 古都紀行――大原三千院にて
- 五月――少女
- 五月――香気
- 九月――思惑
- 雨の日 春は訪れてくる
- 訪れ
・仕事を通じて
- 職場でいやな日
- 涙
- 髪をときながら――少女
・平和への思い
- 平和大行進によせて――一九六〇年
- ある設定
- 戦争――玉虫に寄す
・一九六三年のこと
- 日々Ⅰ
- 汚点
・一九五八年のこと
- 流感
- ホームシック
- 価値の問題
- 顔の動乱
・心のできごと
- 日々Ⅱ
- 粧いの渦
- とびら
- 疲れⅠ
- 疲れⅡ
- 夜明け
- 馳せる心で ベトナムや沖縄へ
- ジャガイモの花はなんのために咲く
- ふるさとのように
- 早春――一九六八年
序に代えて 深尾須磨子
あとがき 小山田弘子