花を踏む死者 金沢星子詩集

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 1975年9月、地球社から刊行された金沢星子(1917~)の第3詩集。装幀は熊谷博人。地球叢書6。著者は神戸生まれ。刊行時の住所は世田谷区奥沢。

 金沢星子さんの主題はこの第三詩集で、ようやく死へ向けて、ゆるやかにかたむきはじめたかにみえる。
 ここで語られる死は、もはや生の威嚇的な対峙者、日常の死角へ待伏せる暗い悪意としてのそれではない。死はここでは、むしろ生の香気のように語られる。そして詩人はその叙述を通して、死との和解をいそいでいるかにみえる。あるいは死の側からの和解を、しずかに待ちうけているかにみえる。死はすでに予定恐怖であることをやめ、予定調和の領域へはいりつつあるのであろう。
 ここでは死者たちは、招かれる死そのものである。ここでは薔薇が(「薔薇」)、あるいは鈴蘭が(「鈴蘭」)、そして生命そのものの母胎である海が(「浜辺」)、それぞれに死の香りをただよわせつつうたわれる。
 ここでは死と死者は、音もなく詩人によりそい、いわれなく詩人をわずらわすことを、ひっそりとおそれる日常の随伴者である。
 死をおそれるまえに、いちはやく死になじんで行くこのような姿勢を、詩人はいつ、どこで育んだのか。それをたずねることを、私はおそれる。
 だが、美において死になれることの危険を、おそらく詩人は知悉しているはずである。美が死へ仕掛けられた罠であるのか、あるいは死が美へ仕掛けられた罠であるのか。おそらくは死と美とのこのあやうい均衡、可逆性のうえに、彼女の詩は組立てられているのであろう。
 これらの詩篇のなかに、いたく私をおどろかす一篇がある。


わたしが殺せないところまで
成長した子供よ
ありがとう
わたしにとって 保護すると云うことは
逆に殺し得ると云う重さだった
            「季節」から


 殺意を媒介として成立する、いわば通過儀礼ともいうべきこの発想に、背理としての愛以上のものを私はみる。もはや死におびえぬ寂寥のその直前にある痛みと戦慄に、この詩は直截に触れているからである。
 いいかえれば、彼女の死への平安と和解は、この危機的な認識を前提とすることによってはじめて成立するのである。
(「招かれる死者たち/石原吉郎」より)

 

目次

  • 鈴蘭
  • 浜辺
  • 季節
  • 葬列
  • 植物園
  • 薔薇
  • 羽音
  • 逃げ水
  • 旅立ち
  • 風紋
  • ひまわり
  • 恢復
  • 祈り
  • 淋しい祭
  • 弔詞のように

  • 夜の海
  • バラ星雲
  • ジャズ
  • めざめ
  • 復活
  • 願い
  • 語らい
  • 夕闇
  • 共鳴
  • 出航
  • ふるさと
  • 木枯し
  • 墓地

招かれる死者たち 石原吉郎
あとがき


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