2000年8月、舷燈社から刊行された清水茂(1932~2020)の詩集。装画は著者。著者は東京生まれ、刊行時の職業は早稲田大学文学部教授、住所は埼玉県新座市。
現にいま、そのものが其処にあるということ、その人が其処にいるということ、すでにそれが奇蹟とも呼び得ることではあるまいか。それが何〈故る〉のかという問い以前に、〈在る〉ことの不思議にまずは心を留めたいと思う。宇宙があり、世界があるということにおいても、事情は同じである。しかし、また、〈在る〉ことの事実は、刻々に、容赦なく打ち崩されてゆく。たえず何処かで星が死ぬ、細胞が死ぬように。それもまた、ひとつの事実である。このことに〈詩〉はどのように係わっているのであろうか。作品としての詩は何を救い得るのであろうか。ことばの営みに、人は何を期待し得るのであろうか。
〈在る〉とのこの奇蹟のなかで、異なる民族、文化、宗教、言語相互間の抗争・葛藤がこれほどに烈しいのは何故なのか。人は何故、世界を対象化し、断片化して、自らの欲望をそこに投げかけようとするのか。〈詩>は世界をひとつの、分割し得ない全体として受容し、人間の営みの中心にあるべきものを指し示すことができないだろうか。というのも、〈詩〉はどのような世界制覇とも無縁だと思われるからである。
そんな絶望的な期待をまだ棄てきれずにいる。
『冬の霧』(一九九八舷燈社刊)以降の作品のなかから、これらの詩篇を取り集めてみた。今回も柏田崇史さんのお世話になった。この詩集に、幾点か、自作の絵を添えてみてはどうかと勧めてくれたのも柏田さんである。描かれた風景はいずれも滞欧の日に自分の目に触れたものであるが、そこにも、また、存在のよろこびの瞬間があったことを私は想い出す。
(「あとがき」より)
目次
- 声よ やさしい声よ
- 素朴な春のうた
- 沈黙の海に
- 壁 大気の
- 消えないもの
- ロマンモティエの塔に
- 目にはみえない壁面に
- 熱い闇
- 新しい生命に
- 永遠が凝縮されて
- 祈りの歌
- 哀歌
- マユミの実
- すべてを差し出して
- 微かなもの
- ある音楽に
- 暮れはじめた道で
- 春の夜明け
- 雨の朝
- 縺れ歩き
- ほとんど消えかけて
- 託されて在るもの
- 壁画
- 穏かな明るさ
- 变容
- 夏の井戸
- GENTIANA VERNA L.
- べつの無限
- 「最後の秋が燃え立つ」
- 地を匍って
- あまりに深かったので
- ヴィオレッタ
- ローザンヌに到けば
- 秋の終る日
- 風
- 困難な軽妙さ
- ミセレーレ
- 夢
- 一条の根
- 冬の庭で
- 朝の国
- 幼い手の指の影が
- 最後のことば
- あなたは生れるだろう
あとがき