1960年、飯塚書店から発行された木島始(1928~2004)の第3詩集。解説は大岡信(1931~2017)。
木島始の詩はとっつき易いものではない。これは詩だけにとどまらず、彼の小説でも少年文学の創作でも、いや翻訳でさえも、そうだといえるかもしれない。
この文章は木島始の新しい詩集『ペタルの魂』の解説なのだから、最初からこんな風に書くことは解説者失格のおそれなきにしもあらずである。ところが、実は彼の作品のそうした性格こそ、木島始という詩人の、決して派手にひと目に映ることのない、オリジナリティを形作っている重要な要素なのである。
彼は最近ラングストン・ヒューズの『ジャズ』の翻訳を出した。ぼくは『現代詩』にこの本の紹介を含む一文を書いたが、その折この本を引用しながら、彼の翻訳が、いわゆる達意の名訳と称される訳文では省略されるにちがいないような細部をも、あまさず日本に移しかえているのを見て興味を感じた。論理的な厳密さを読み易さよりも重視する態度の、かなり明瞭なあらわれがそこにあると思われたからだ。同じようなことは、彼の詩にも明らかにみてとられる。詩人のタイプは、彼がある状態を表現しようとする場合言葉をどのようにその状態と噛み合わせるか、その噛み合わせ方、つまり彼のスタイルによって決るといっていいだろうが、木島始の場合、それはどんな風にあらわれているだろうか。
たとえば彼は、愛が暗礁に乗りあげた状態を次のように表現する。ぼくらはいまやつきぬ悔恨を、脱出の海へとただよい逃げても、
大地に足をふみつける岸辺はなかった。
船酔いのままに呕吐を口からあびせかけ、しかも
ぐったりもたれあって悪態をつきあうふたりであった。
「愛」という船底は揺れにゆれ、肉欲がぐいとぼくをきみの胸に引き寄せる。
きみは啜り泣く。海鳴りはまえぶれする嵐。しきりな稲妻。
ぼくらは船窓から四つの眼をよせあって。うねる航路をながめやる。かすかな方向感。こうした表現は、男女の愛のもつれ、いざこざをその現場でとらえた直接の表現ではない。「『愛』という船底」といった比喩に典型的にあらわれているように、これは再構成さえれ、客観化された愛のもちれであり苦悩である。いわゆる「現代詩」は、たとえば右の例にみられるような、カッコ付きの「愛」、概念化され比喩化された「愛」、古典主義詩人や浪漫主義詩人の中にあった大文字の「愛」とは別の、個人的で直接的な、一回限りの愛、小文字の愛を表現することに熱中してきた……
(大岡信「解説」より)
目次
I
恋歌―一九五〇年―
裸形の影絵
II
登攀
沼と蛇
III
わが詩劇のなかの小市民の愛の唄
わが登場人物たちの誦する身近の唄
IV
幻視の光栄(ライムライト)
衛生の唄
管理部門
V
ペタルの魂
ニホンザル・スキトオリメ
VI
最初の脱出
組曲「海の雪(マリーン・スノウ)」