1975年4月、短歌新聞社から刊行された大西民子(1924~1994)の第5歌集。装幀、題簽は木俣修(1906~1983)。
なぜそうであったのか分りませんが、その一年ほど前から、妹と私はそれまでになく睦みあってくらしていたような気がいたします。十三年も飼い続けた犬を死なせて、この世に残されたのはいよいよたった二人だけ、という思いだったのかも知れません。妹は私の歌の熱心な読み手で、また容赦ない批評者でもありました。まるで妹一人のために歌を書き続けていたような気さえいたします。
死の三か月ほど前のことでしたが、私の歌ののった雑誌を熱心に読んでいた妹が、泣いているのに気がつきました。「どうしたの」と聞くと、「あたしのことが、こんなに大事なのね、失うのがこわいのね」などと言うのでした。それは円柱は何れも太く妹をしばしばわれの視野から奪ふ
という一首のことでした。それから、そのなかに、「この歌はなんとなく不吉だわ」という歌もありました。次の一首のことでした。
盛りあげて活けゆく花に目の前をしばしなりとも塞がれてゐよ
そして、死の一週間前の日曜日の新聞にのせた歌のなかに、次のような一首があったことも、あとで思えば恐ろしいようなことでした。
始まりも終りも知らず生きゐると小さく署名なすとき思ふ
その朝、駅まで新聞を買いに行ってくれた妹は、駅前から電話をかけて来て、「写真の顔がなんだかさびしそうよ、泣いているみたい」と言ったりしたのでした。
妹の死の前年からの作品七心き写しながら、堪えられなくなって何度も筆をおきました。母の死後の十三年間、妹との生活が続きましたが、母の死の直前に手に入れた犬を、母の身代りとしてきようだいのようにかわいがってくらした年月は、思えばお伽話のようなものでした。
昭和四十七年六月四日未明、妹は心臓麻痺で突然死んでしまいました。そのあとの二年余り、私のノートは挽歌でうずまりました。挽歌を作るために、三十年も歌を習い続けて来たのだろうか、と思えたりしました。挽歌がたとえどのように歌えたとしても、それが何になろう、もう私が死んでもだれも路頭に迷うものはいない、そんな心ゆるみからか、その月日を私は病みがちに過ごしました。
数えて見ると、作品が大分たまっていました。大体五年おきに第四集までまとめて参りましたが、このたびは少し早めて第五集をまとめ、妹を愛して下さった方々や、その後の私を支えて下さった方方へのお礼にいたしたいと思います。
歌をはじめて三十年、それは学校を終り、社会に出て働くようになってからの三十年とかさなりますが、思い返せば、つたない歳月であった、としか言いようがありません。
しかし気がついて見ると、家族がいないということは、何事もひとりで忍べばすむ、ということでもありました。恐ろしいことはもう何もなくなりました。残された歳月、できれば健康で働きながら、御恩を蒙った方々へ少しでもお報いが出来ますよう、努力してゆきたいと願っております。
(「後記」より)
目次
- 木などになれず
- 風のやうに
- 雲の地図
- ギヤマンの花
- 敗るる勿れ
- 犬の名
- ときにしづけし
- 風吹く森
- ふと遠のきて
- 空からこはれて
- ふたたびわれは
- 操られゐる
- うすらかに
- しのぎて在りて
- 力湧き来よ
- 幾月かたつ
- われより何を
- 草を食みても
- 妹は見ず
- 花を撃つ
- ほくろの一つ
- 茎のごとくに
- 白桃季
- 消し忘れゐる
- 耳から醒めて
- たれも還らぬ
- のちの思ひに
- 冬のてのひら
- あえかに雪の
- くつがへらねば
- 十方の闇
- 花びらは湧け
- 石か動く
- 身を責めて
後記