1940年8月、河出書房から刊行された永瀬清子(1906~1995)の第2詩集。画像は函欠本。
第一詩集「グレンデルの母親」を出してからいつの間にか十年たちました。その十年の間に書いたものの中から詩と詩に關するものを選んで、第二詩集「諸國の天女」を編みました。
この詩集に世の所謂純粋な「詩」以外のものをとり入れた事は、ある人には混雑と不純とに思はれるかも知れません。即ち、第二部の枠外帳以下はせまい意味の「詩」の意識よりいくらか自由な立場からかいたもので、私の獨自な意味での自由詩とでも云ふべきるのでせう。
しかし「あらゆることを詩で想ひ、あらゆることを詩せよ」と云ふ私の詩句の通り詩の題材は無限であることを私は信じ、又、これらのアフォリズムが私の詩精神と切りはなすべきるのでない、と云ふよりはむしろ何よりも「詩人」としての私が思念したものと云ふべきなので、混雑をあへて意にしないで一ッの詩集の中へ入れることにいたしました。
つまりこれは枝ではなくて貴方に植ゑられるための根こそぎの木のやうなものなのです。この事が一層讀む人に私と云ふものを親しますととになってくれゝばうれしいと思います。又この事が世の詩人や詩の愛好者だけでなく今まで詩をよまなかつた人々にも、いくらかで詩をよんでいたゞくことに役立ってくれゝばなほありがたいと思います。
十年のうちには、その時全力を傾けたるのでもだんだん讀むに堪へなくなったものも多く、自然近頃のものほど多く探りました。第一章は、最近一ヶ年あまりのもの、たぶその中の「白晝」だけは、發表は最近でしたが書いたのは第一詩集刊行の直後で最も古いものです。第二章以下は大半は同人誌「麺麭」その他に發表したもの、この詩集の章の並べ方は期せずに抒情詩からはじまって批評に終るととになりました。
「諸國の天女」と云ふ題は巻頭の詩から探りました。この詩は私自身のことをうたったわけではなくある女詩人の運命にヒントを得て書いたもので、それに柳田國男氏の著書で、日本には有名な三保の松原や出雲風土記の天女以外に、北から南のはてにいたるまで殆どあらゆる地方に天女傳說があると云ふことを知り、それは皆夫や子供に別れて天に昇った天女の話ですけど、よしそれならば、昇らぬ天女は傳說にもつたはらないで、なほなほ多いことだらう。そしてそれは遠い昔の世のことではなくて今の世にもあとを絶つてはゐないだらう。さう云ふこゝろで書きました。
この詩ではじまるこれらの章を特にとの國の現在又未來の女詩人へのさゝやかな贈り物にしたいと思ひます。やがてきらびやかな女詩人の黄金時代を夢みて今私はほんの小さな一ツの鋲を獻するのです。
最後にこの詩集の出版までにいろいろ骨折り下さり、御力を下すつた高村光太郎氏、萩原朔太郎氏、北川冬彦氏、佐藤惣之助氏、深尾須磨子氏、宮島肇氏、河出孝雄氏にふかいふかい感謝をさゝげ御厚意を終生忘れることは出來ないでせう。
(「跋/永瀬清子」より)
目次
序・高村光太郞
I 諸國の天女
- 諸國の天女
- イトハルカナル海ノゴトク
- フルヒ落シテキタモノガ
- イマダ像ヲナサズシテ
- 祝ぎ歌
- 雨フレバタマシヒノ
- 白晝
- 打チフレヨ
- 無色ノ人
- 花咲かぬ樹
- 老いたる樹々
- 夏讚歌
II 夏冬の歌
- 冬
- 雜草の中
- ある夏の日に
- 夜の竝木路を
- 梢
- 夏日誦
- 夏
- 草に寄す
- 冬
III 落差に就いて
- 落差に就いて
- わが肉は新陳代謝はげしく
- 何物もたづさへず
- 汚れた雪
- 山岳多き國土に育ちぬ
- 虛空から白い微塵が
- 飢餓の感情
- 麵麭
- 他界集
- (一) 巨
- (二) 鬼
- 脫皮
- 崑崙
- 麥死なず
- 流れるごとく書けよ
IV 枠外帳
- 椅子
- 論理のどもり
- 相似
- 靴
- 佛法僧
- 素描
- 駘蕩たる生活
- 誰をかも
- 世の諷刺詩人への諷刺詩
- 不如混濁
- 乳母車
- 私は
- 花束
- 皮膚をきたへん
- エアポケツト
- 顏
- 女性は文學に死せず
- 美しい人
- ギリシヤの海では
- 鶯の聲
- デカダンスは
- 云ひわけ
- 約束せぬ戀人
- 女性の價値標準
- ほしいもの
- 文學と題して
- 無題四行
- 絢爛なる落日
- 海の色
- 步き方
- 戀愛論
- 同じく
- 母の戀愛
- マリヤ
- 眼
- 一對三
- 苦の世界
- 野菜
- 偉大なる素人
- ヴイジヨンに就ての斷片
V 象徵の廚
- A―Z
VI 糸針抄
跋 永瀬清子
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