物語N 宮川明子詩集

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 1975年10月、深夜叢書社から刊行された宮川明子(1940~)の第2詩集。装幀は横尾龍彦。著者は京城生まれ、刊行時の職業は明治学院大学仏文学助教授。アルフレッド・ジャリの翻訳者。

 

 すべては成り行きなのだから、何事につけ怒り悲しむほどのことはない、とひどく老いた心で暮らすようになってしまった。「空の空、空の空、一切は空なり」と読んで、心動かされたりする。要するに詩などどうでもいいのである。
 とはいうものの、「われ非情の河また河を下りし時」と読んだりすると、再び心は騒ぐのである。ランボーの生=詩は見事に完結している。それはまぶしい。多分彼自身はひどくみじめだったろうに。
 ランボーの言う「馬鹿馬鹿しい絵」とつながるのだが、俗悪な色彩を駆使して、俗悪を超えること、いまや私は陳腐な常套句を好ましく感じる。「風は肌に柔に、星々は煌めいていた」などと、時に憶面もなく書くフロベールの気持がよくわかる。所詮ひとは素朴に心動かされ、素朴に圧倒され、常套句にもついつい涙したりするのではあるまいか、などと。意味ありげな物言いは、次第に卑しいとしか感じられなくなってゆく。要するに空は空であり、海はまさに海であるような、アッケラカンとした世界が欲しいのだ。
 しかしそれは恐らく不可能な望みである。私たちは馬鹿馬鹿しくも年を取り過ぎているのだ。
 いずれにせよ、私たちはまたじょじょに無名の語り手へと還ってゆくしかないような気がする。むかし、人々になにごとかを伝えようとして、人々を楽しませ、おのれ自身も楽しみつつ語ったあの語り手の原型へ。率直で、述べる事柄は基本的な感情にあふれ、単純な掟をもち、思わせぶりを知らない、おのれのためというよりも、伝えたいことのために語り、その結果快いやり方で姿をくらます、素朴でありながら巧妙さに欠けず、通俗であって通俗をいつか超え、またいつか通俗に戻る術を心得ている、そんな語り手へ。
 結局私は自然なもの、普遍的なものに好意を寄せているのかもしれない。何事も大して変わるわけはない、と内心考えているのに違いない。それはおそるべきことのはずなのに、私は平然として恥じる風もない。
(「あとがき1」より)


目次

  • 物語N
  • 専横
  • 狂喜してあたしは
  • かくて刃は
  • 安楽のなかであたしは
  • I氏邸に至る夜の中の
  • アツカ アツカ!
  • だがどうのように私は
  • 青空

後記


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