
1983年8月、理論社から刊行された足立巻一(1913~1985)の詩集。表紙彫刻は辻晉堂。
一九七八年春のことである。ある友人がいきなり言った。「きみはそんなに晉堂さんと親しいのか。〝浄瑠璃"という陶彫の首根っ子に〝だんだん足立巻一さんに似てきた"と彫ってあったぞ」。その人は京都で辻晉堂さんの個展を見て来たのだ。言われて驚いた。親しいも何もない。ただの一度お会いしただけである。
一九五二年秋、ある新聞の美術記者をしていたわたしは、その年の院展に出品された辻さんの「坐像」という作品をおもしろく思い、当時京都美大(いま、京都芸大)といっていた大学の研究室をたずねた。辻さんは美大教授(のち芸大名誉教授)をしていられ、まだ四十二歳の壮年であった。初対面にもかかわらず、時を忘れて話しこんだ。「人の悪口言いながら酒飲むのが一番うまいですな」とか「写実はもうアキアキした」とか熱っぽく語られたことをおぼえている。その作品「坐像」も白色セメントに寒水石の砂をまぜた塑像で、高さは一メートルを越え、のっぺらぼうの顔の両眼に、子どもが遊ぶガラスのはじき玉をはめこんであるのが異様であった。
しかし、辻さんとはそののち一度も会う機会がなかった。それなのに、二十六年もたってその陶彫にわたしの名が刻まれたのがまことに不思議で気にかかった。でも、その話を聞いたときには個展の期間は終わっており、確かめようもなかった。
ところが、一九七八年十月十六日から二十八日まで東京銀座のギャラリーせいほうで個展が開かれ、「浄瑠璃」もそれに出品されることを知り、わたしはそのためだけに見に出かけた。「浄瑠璃」は竹本津太夫が裃をつけて語っている姿をモデルにしたらしいが、顎の長いところがいくらかわたしに似てきたので、辻さんは首にそんな戯れ彫りをされたことが察しられた。
そのとき見た個展の作品にはどれも感銘したが、とりわけ「寒山」「拾得」がこたえられず、『東方界』という宗教雑誌に「拾得」の写真と感想とを載せた。その了解を辻さんに電話で求めると、あの「浄瑠璃」をもらってくれと言われる。つづいて『辻晉堂陶彫作品集』(講談社)が出版され、その出版記念会が京都ホテルで盛大に催された。そのときはお話しする暇もなかったが、十一月十日付の礼状に「先日電話で申し上げたように是非ともあれを差上げたいと存じますので、どうか御遠慮なくお遊びにおこし下さいますようにお待ち申し上げます」と添え書きしてあった。
それで押しつまった十二月二十三日、雨のなかを頂戴に上がり、散々ご馳走になり、辻さんもわたしも原酒にブランデーをがぶ飲みしてすっかり酔っぱらった。酔いながらもわたしはこのつぎに出す第四詩集は巻頭を「浄瑠璃」で飾りたいと思った。しかし、わたしの詩集はまとまらず、辻さんにお会いすることも絶えてなかった。久しぶりに辻さんと会ったのは、一九八一年一月十八日、八尋不二さんのお祝い会が京都ホテルであったときのことで、わたしが早速詩集に「浄瑠璃」を使いたいと言うと、辻さんは喜ばれたがひどく元気がなかった。
やがて一月二十四日付で「浄瑠璃」のカラー写真を送ってくださり、その手紙は「京都へお越しの節はお立寄り下さいますようお待ち申します。但し三月末より暫らくの間病院に入る予定でありまして、春の温い気候になってからのことと御含み置き願います。美しい詩集の完成を期待します。寒気酷烈の御自愛の程祈り上げます」と結ばれていた。
辻さんの病気は食道癌だった。そして同年八月十八日七十歳で逝去された。わたしの詩集はとうとう間に合わず、お見舞いにもゆけず、心がしきりに痛んだ。せめて一周忌までには詩集を出し、辻さんに捧げたいと思ったが、身辺に多事がつづいた。
そして一九八二年三月七日、敬愛する竹中郁さんの死に遭い、詩稿の整理と全詩集の編集に没頭し、ようやく一周忌直前に『竹中郁全詩集』を刊行することができた。安堵するとともに深い疲労をおぼえた。そののちも五月二日亡母の二十五回忌を営んだりしているうちに、いつしか満七十歳を迎えていた。辻晉堂さんの没年である。急いで詩稿をまとめた。それには少年の日からの詩友亜騎保・米田透に助けてもらった。これを『雑歌』と題したのは、数年来のくさぐさの歌を集めたからであるが、また、古歌集などを読んでいて「雑之部」が好きなことにも由る。
(「あとがき」より)
目次
1
- 石の犬
- 狼
- 葉
- 斎王の指輪
- 斎石
- 才ノ神谷の紫式部
- 布引
- 花語り
- 忍ぶ恋
2
- 磐座一
- 磐座二
- 石の星座
- 尖った石の上
- 蘇生の歌
- 神名
- 剣峠
- 盲目の歌
- 3
- 中原
- あなたは横たわっている
- 脱走
- 波紋
- 夢
- 蟬
- 地名
- 真夏の死児たち
- 花に蝶
4
初出誌一覧
あとがき
足立卷一著作目録