麻痺した顔 らいの検診カルテから 原田禹雄

 1979年5月、ルガール社から刊行された原田禹雄(1925~)の記録集。著者はハンセン病療養所の国立療養所長島愛生園医長、邑久光明園長、等歴任。著者は、寺山修司塚本邦雄、山中智恵子らと共に、前衛短歌誌「極」で活躍。

 

 主として戦後になってから、らい療養所の患者さんたちの文芸や評論が次々と出版されるようになった。それにくらべてらい医の書いた本が世に出ることは少ない。医師たちはどこの園でも手不足で、忙しすぎるためであろうか。否、それだけではあるまい。らいの仕事があまりにも複雑で、知れば知るほど、簡単にきれいごとを言うだけでは済まなくなり、筆が重くなるのだろう、と考えられる。
 しかし、患者さんの声だけでは、らいという問題の重さは一方的にしかわからない。らい医学に献身しておられる方から、ありのままを書いて頂きたいと長い間願ってきた。
 そのうちに「愛生」誌や「楓」誌に原田昌雄先生の文章が連載されるようになった。「らい基本治療科」の医師は療養所での医療の大黒柱のような存在である。その一人である原田先生が、近畿、北陸の各県にわたって毎年検診に行かれた時の記録、沖縄のらい検診、さらには日本のらい医学史等々。その健筆を通して、先生のなかには学究、臨床医、詩人が同居しているのがうかがえた。
 原田先生には曽て十年ぐらいであろうか、時どきお目にかかったことがある。瀬戸内海に浮かぶ光明園や愛生園の船の上で、あるいは京都の研究会のあとで、などなど。精悍で豪放な先生にはまたせんさいな感性が宿っているのが感ぜられた。ご自身に対して誠実さを課すと同時に、患者さんたちに対しては、真の愛なるが故のきびしさとやさしさとをあわせて臨んでおられた。いつか先生のカルテの徹底的な厳密さに驚歎したこともある。
 本書は各地での検診記録が主体となっているが、それらは後につけられた付録「らいについて」という解説に血を通わせる症例研究ともなろう。統計やきまり文句では片づけられない要素がらいにはあることがひとりひとりの例についての物語でわかる。在宅患者さんたちを定期的に訪れて、自然治癒を見ればよろこび、治療を要する人には、その人と家族にとって最もいい方法を考える。時にはらいでない人に診療を求められて、ホッとしたり、それなりの苦心をしたりする。強制収容の時代の記録とはまた別のキメの細かさやユーモアや詩情があふれている。出版されれば、と願わずいられなかった文章である。
 先生は最近邑久光明園の園長になられた。しかし、決単なる行政官にはなってしまわれないだろう。私はこれからのお仕事にも多くを期待している。
(「序文/神谷美恵子」より)

 

 思いもかけず、検診を中心とした、らいに関する私の記事を、一冊の本にまとめて、世に送りだすことになった。
 邑久光明園の「楓』、長島愛生園の『愛生』、大島青松園の『青松』など、らい療養所の機関誌に主として発表されたこれらの記事は、一般の人々の眼に触れる機会は、まずなかったはずである。
 戦前、小川正子先生の『小島の春』が、日本の人々に広く愛読され、その内容が、らいのイメージを作りあげていたことは否定できない。戦後、治らないらいが、治るらいとなった。そして、「らい予防法」も大きく変り、検診の方法なども根本的にかわってきた。しかし、戦前からひきずって来ているものも、色濃くのこっている点も否定できない。
 こうした変貌をつたえる本が、戦後に、それほど広く出ていないことを思うと、私のこれらの記事を、世に送りだすことの意義も、なしとはしない。小川先生の『小島の春』と比肩しようとする気など、もとよりあろうはずはない。
 愛生園に在職中、入園者の病歴の再調査をして、特にらいの発病に関する研究をしたことがある。病歴の多くは、いろいろの事情のため、その記事よりも数年から十数年も発病の時期をさかのぼらねばならなかった。ところが、ただひとり、いささかの修正も要しない記事を書く医師が、私たちの目をひいた。そののカルテは、いつも端正な字で書かれており、署名に「小川」と記されていた。私は、小川正子先生こそらいの像を悉知されていたと信じている。『小島の春に代表されて、先生の医師としての評価の少ないことを、私はむしろ遺憾としている。
 記事の中には、ある人々を意識して、かなり不穏当なことを綴った個所もある。だが、あえて私はそのままにしておいた。それらの人々は、私のこのような小さな毀誉褒貶を越えた高みで、らいに寄与されたことは歴然としている。当時の若さと小ささの証しとして、これらの個所を、あえてとどめたのである。
 臨床医の私は、医学や看護学は具体的なものだと認識している。医学や看護学について、いかに美しい理念が語られようと、眼前のらいを病む人々に、具体的な救いがとどかぬかぎり、私はそのような理念は信じない。至便な都会地でなければ花ひらこうとしない医学や看護学ならば、らいをおき去りにしたままの医学や看護学ならば、私にとってそれは進歩でも発展でもあり得ない。
 誰かがやらなければならない仕事の場に、誰も来ようとはしなかった。ただ少数の人々が、ふみとどまって苦しんでいる。というのが、今のらいの療養所の姿といえよう。そして、あと、二、三十年もすれば日本のらいは消えてゆくにちがいない。「小島の春」の時代に、誰が、今のような日本のらいの姿を推測できたであろう。消えてゆくらいには、しかし、まだまだ具体的にやらなければならぬ仕事が多い。今、私たちは、その終着点をめざしながら、孤独な作業をすすめている。
 ささやかなこの一冊から、私たちのこのような営為の一端をみて頂ければ望外の幸せである。この本の出版は、神谷美恵子先生のあたたかいお力ぞえと、ルガール社の山崎俊生さんの決断とによって実現した。心からお礼申しあげる。なお、文中の人名は、すべて仮名を用いた。念のために申しそえる。
(「あとがき」より)

 

目次

序文 神谷美恵子

  • 第一章 一杯のお茶
  • 第二章 小さい姉妹 
  • 第三章 引き裂かれてた顔
  • 第四章 奇縁
  • 第五章 風棘
  • 第六章 石の仏
  • 第七章 雪
  • 第八章 真と偽と
  • 第九章 失明
  • 第十章 赤ちゃんをうみなさい
  • 第十一章 入園希望
  • 第十二章 ひとりの時
  • 第十三章 「ついでに二、三人」
  • 第十四章 逃走
  • 第十五章 麻痺した顔
  • 第十六章 伊野波節
  • 第十七章 光明園
  • 第十八章 関西で
  • 第十九章 百年のなかのらい

(付録)らいについて
あとがき


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