伝説 光岡良二詩集 

 1983年7月、沖積舎から刊行された光岡良二(1911~1995)の詩集。

 

 もともとは歌つくりの私が、戦後のある時期にだけ詩を書いていました。詩作はせいぜい五、六年の間で、その前にも、後にもないのです。私の三十代後半にあたり、とても青春などと呼べる年代ではないのですが、私に遅すぎるほどおそくおとずれた或る青春とも言える季節と、それは重なっていて、その中で詩が生まれました。
 その前も後もない四、五十編の詩は、なんとも、みなしごのように頼りなく、あわれげで、本当は捨ててしまえばよいのに、それに賭けた無数の日や夜を思うと、そんなにさばさばと片付けてしまうこともできず、ながいあいだ筐底に眠っていました。
 三年ほど前に、思い立って粗末な私家版の形で、三十編ほどの作品を編んで『鷲毛』という標題の詩集を小部数つくりました。読者はおおかたが私の歌の仲間か、それよりそんなに広くは出ない範囲の人たちでしたが、思いもしなかったほどの好評で迎えられ、面白い、歌集(私の)よりずっといい、と言われたりもしました。歌つくりである私は、この賛辞を喜んでいいのか、くやしがっていいのか分らず、複雑なきもちでしたが、とにかく、手ごたえはあったのです。みなしごであるこの詩たちに、もう一度あたらしい装いをさせて世の中におくり出す勇気を起こさせてくれたのは、これらの『鷺毛』の読み手たちでした。装いせよ、わが魂よ、です。
 こんどの詩集『伝説』――それは「定本・鵞毛」に他ならないのですが――で私は思いきってきびしく撰りすぐり、十八編の詩だけを残しました。モチーフだけがさきだって、肉薄になったもの、詩としての熔炉の火の低いもの、などすべて捨てました。多く捨て、少なく残すことで、残された詩が明確に、透明に切り立ってくるのを期待しました。
 詩の背後を語る部分として『鵞毛』では入れた小散文―「Dedication」と題した或る人への手紙や、ながい「あとがき」の語りも、今読み返すと、私的な回想にしている生まぬるさがむしろ感じられて、それらもすべて省きました。ぎりぎりのところ、詩には<背後など無用であり、ただ<詩>だけが自立して、確かな、何らかの<存在>であればよい、というのが私の今の考えです。
 病気が再発して、かつて知り尽くした癩園へ真黒な絶望を抱いて帰って来て、この、一切の人寰から孤絶したPitのようなところで私はこれらの詩を書き、神保光太郎選の詩欄がある小さな療養所の雑誌に、「厚木叡」のペンネームで毎月投稿しつづけていました。私に詩の上の師匠があるとすれば、神保先生がただ一人の人です。
 そんな境涯の中で書かれた私の詩がもつしずかさに、多くの人がおどろきます。また、私の歌も含めてbitterな現実から逃げていると見做す人も少なくありません。だが、その頃の私は、こんな静謐な、ひ弱げな詩を武器として、私を包み私に押し迫る<全現実と対峙し戦闘していたのだと、今になって気づくのです。そんな詩世界をうちがわに強固に抱いていたからこそ、私は今まで生きて来られたのだと思うのです。
 この古い詩稿にいまなお執着し、関わりながら、これらのことばたちが私のうちがわに否応なく招き寄せるのは、いまより何層倍も濃密な時間を俺は生きていたなァ、という体感です。そして不意に、わけもなく、詩を作らねば、と思うのです。
 私はことし七十一歳になりました。これを第一冊目として、生きている間にもう一冊詩集を出したい。三十年の間歇期をおいて、三十年経った老年の<いま>の詩を、と思いはじめています。できるかできないか分りませんが、そんな思いを誓いのように言葉に発しておくことで、それに近づきたいと思っています。
 私が歌つくりであることは、はじめに言いました。その畑のしごとも少し出しておいた方がいいと思い、詩篇のあとに添えました。そのことを、原稿の送稿まぎわに電話でわざわざ言ってすすめてくれたのは、私の歌の友人木田そのえさんでした。作品も「鼓樓のある町」とスパッと名指してです。このアイディアに私はよろこんで従いました。「鼓樓のある町」は、詩「少年」と響き合って、アンサンブルをなしているようなのが、私には気に入りました。
 終りに、この詩集の上梓を熱心にすすめ、本作りの面倒をみて下さった沖積舎の沖山隆久さんにお礼申し上げます。
(「あとがき未知の読者への手紙」より)

 


目次

  • 伝説
  • 少年
  • 愛禽
  • 風に寄せるソネット
  • 草深野
  • 聖母子
  • 菜の花
  • 田舎に就いて
  • 時圭
  • 孔雀
  • フラグメント
  • 六月への頌歌
  • 鵞毛
  • Q広場にて
  • 鼓樓のある町

あとがき

 

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